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悪をもおそるべからず [『歎異抄』ふたたび(その23)]

(13)悪をもおそるべからず

 弥陀の本願は「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」の後、最後に「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」と締めくくられます。誰もみな横一線に「罪悪深重、煩悩熾盛」であり、そうした衆生のために本願があるのだから、「なにか善きことをしなければ」とか、「ああ、また悪いことをしてしまった」とか思うことなく、すべてを本願に委ねて生きればいいということです。第7章に「念仏は無碍の一道」とあるのはこのことです。
 さあしかしこの「悪をもおそるべからず」は、一つ間違えばとんでもない誤解を招きます。もう善も悪もない、すべてが許されている、とする考えです。実際、すでに法然のときからそのような誤った考えに迷い込んだ人たちが現れ、念仏すれば必ず往生できるのだから、もう何も遠慮することはない、したいようにすればいいのだという「造悪無碍」の言動に走ったことがありました。法然は「七箇条制誡」のなかで、造悪を恐れることはないなどと主張してはならないと誡めています。親鸞もまた書簡のなかで、「本願というすばらしい薬があるからといって、あえて毒を好むことがあってはならない」と繰り返し釘を刺しています。第13章でこの問題が主題として取り上げられますが、ここで少し考えておきましょう。
 ことは「もうすでに」と「これから」の違いに関わります。
 「もうすでに」なしてしまったことについては、悪を「おそるべからず」ですが、「これから」なそうとすることについては、悪を「つつしむべし」ということです。己の来し方を振り返ってみますと、ああ何と罪悪深重であることか、煩悩熾盛であることかと慨嘆せざるをえませんが、そのようなわれらのために本願があるのですから、そのことを「おそるべからず」です。しかし、これから何をなすべきかと思案するときには、できるだけ悪いことはしないように身をつつしもうと思うものです。こんな罪悪深重、煩悩熾盛の自分が救われるとは何と有り難いことかという思いは、これからは少しでも身をあらためようという気持ちにつながるに違いありません。

                (第2回 完)

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