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よきひとの仰せをかぶりて [『歎異抄』ふたたび(その25)]

(2)よきひとの仰せをかぶりて

 「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」と不審の表情を浮かべる弟子たちに、おそらくは親鸞も憮然とした面持ちで、それは「おほきなるあやまりなり」と一喝します。そして「あなた方がそのように思うのでしたら、興福寺でも延暦寺でも行って、どうすれば往生できるか、偉い学者に聞いてきなさい」と突き放すのですが、ここには本願の信が確固としたものになっていない弟子たちに対する落胆の気持ちが滲んでいます。
 そう言えば、親鸞は善鸞の言動に振り回されている弟子たちへの手紙でも同様の失望を吐露していました、「慈信坊(善鸞です)が申すことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあうておはしまし候ふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれて候ふ」(『親鸞聖人御消息集』第12通、真浄坊宛て)というように。善鸞ごときが言うことにあたふたしているのは、あなた方の信が「まこと」ではないことのあらわれだというのです。
 では「まことの信」とは何か。それが「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というものです。わたしとしましては、法然聖人から「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せをいただいて、ただそれを信じているだけで、その他に特に何かがあるのではありません、というのですが、このことばに含まれている大事なものをじっくりと吟味しなければなりません。
 本願念仏というものは、こちらからゲットできるものではなく、むこうからゲットされるものであるということ、これです。
 親鸞が目の前の人たちに言おうとしていることを斟酌してみますと、次のようになると思われます。あなた方が「十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」のは、何とかして本願念仏をつかみ取ろうと思ってのことでしょう。そしてわたし親鸞が「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめ」すのもそのような気持ちからに違いありません。しかし本願念仏はこちらからつかみ取ることができるようなものではありません、気がついたらむこうからつかみ取られているのです。親鸞はこう言おうとしていると思われます。

タグ:親鸞を読む
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