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真実報土の正因を [親鸞の和讃に親しむ(その96)]

(6)真実報土の正因を

真実報土の正因を 二尊のみことにたまはりて 正定聚に住すれば かならず滅度をさとるなり(第43首)

真の浄土の正因を、釈迦・弥陀二尊にたまわりて、正定聚にぞさだまれば、かならず悟りひらくなり

「真実報土の正因」とは、言うまでもなく信心、すなわち本願の気づきです。そしてそれを「二尊のみことにたまはりて」と詠われるのは、これまた言うまでもなく弥陀・釈迦の仰せをいただいてということです。二尊の仰せと言えば、善導が二河白道の譬えの中でそれに素晴らしいかたちを与えてくれていることを思い出します。白道を前にした旅人に、河の東岸から釈迦が「きみただ決定してこの道に尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし住(とど)まらばすなはち死せん」と呼びかけ、一方、西岸からは弥陀が「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と招くのでした。

さてここで考えたいのは、こうした弥陀や釈迦の仰せはどこからやってくるかということです。

善導が二尊の仰せとして上げていた「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」と「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」ということばは経典のどこを探してもありません。これは善導がみずから聞いた声です。しかしそれは、あるとき突然これらの声が善導に向かって中空から舞い降りてきたということではありません。これは彼が経典を読んだり、あるいは道綽の教えを受けているときに、その文字や声を通してどこか遠くからやってきたものに違いありません。経典の文字や「よきひと」の声がこれらのメッセージを運んでくるのです。

これが「気づき」ということです。気づきはあるとき突然起こりますが、でもそれにはかならずきっかけがあります。印象的なのが法然の場合で、彼は比叡山・黒谷の経蔵で善導の『観経疏』を読んでいたとき、その一節、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近をとはず、念々に捨てざるをば正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」が彼の眼を射たと伝えられます。この文字が「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という招喚の声を運んできたのです。


タグ:親鸞を読む
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