SSブログ

無始流転の苦をすてて [親鸞の和讃に親しむ(その97)]

(7)無始流転の苦をすてて

無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期(ご)すること 如来二種の回向(往相回向と還相回向)の 恩徳まことに謝しがたし(第49首)

無始よりつづく苦しみが、無上涅槃に転ずるは、本願力の回向にて、その恩いかに謝すべきか

これまでの来し方をふり返って、いかに長い時間、生死の苦海を流転してきたかという述懐にときどき出会うことがあります。思い出すまま上げてみますと、『高僧和讃』の源空讃には「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき」とありましたし、『教行信証』序には「弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」とありました。また善導の『観経疏』には「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」とありました。そしてこの和讃では「無始流転の苦」と詠われますが、言うまでもなく、このような述懐は「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得た」(『教行信証』序)ときに、これまでをふり返って言われています。本願名号に遇うことができた「いま」はじめてこのような感慨がわきあがってくるということです。本願名号に遇うことがなかったこれまでは、生死の苦海を流転しているなどとは思いもせず、日々の暮らしに喜怒哀楽を感じていただけです。

こんなふうに、無始よりこのかた生死の苦海を流転してきたのが、どういうご縁か本願名号に「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり」と思えるとき、同時に、「もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴(きょうりゃく)せん」(『教行信証』序)という感慨が起こります。そしてここから「恩徳まことに謝しがたし」という思いが湧き起ってくるのです。如来から「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」という声が聞こえるのは、「何とありがたい(あること難し)ことか」という思いです。「無始よりこのかた云々」という言い回しと対になるのが「かたきがなかになほかたし」という文言で、これまたしばしばお目にかかります。正信偈には「弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と言われています。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。