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生死の流れを度す [「信巻を読む(2)」その42]

(7)生死の流れを度す

「断四流」に関連して、経典から三つの文が引かれます。

『大本』にのたまはく、「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流を度すべし」と。

またのたまはく(『平等覚経』)、「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。以上

『涅槃経』にのたまはく、「また涅槃は名づけて洲渚(しゅうしょ、島)とす。なにをもつてのゆゑに、四大の暴河(ぼが)に漂ふことあたはざるがゆゑに。なんらかを四つとする。一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。このゆゑに涅槃を名づけて洲渚とす」と。以上

これまで生死の流れを「断つ」とか「截る」とか、ここでは「度す」と言われますが、われらが生死の流れを「断ち」、「截り」、「度す」のではありません。われらはあくまでも生死の流れのなかで生きるしかなく、したがって、われらが生死の流れを「断ち」、「截り」、「度す」ということは、みずからわがいのちを断絶することに他なりません。そうではなく、あくまでもわれらは生死の流れのなかを生きながら、あるときその流れが「断たれ」、「截られ」、「度されて」いることに気づくのです。気づいたときには「もうすでに」生死の流れが「断たれ」、「截られ」、「度されて」いるのです。これが「横さまに」ということです。

『涅槃経』は「洲渚の譬え」を出します、涅槃とは激しい生死の流れのなかにあって流されない島のようなものだと。その島に立てば、生死の激流のなかで安心して生きることができます。この譬えが秀逸であるのは生死と涅槃を切り離していないところです。涅槃は生死と別のどこかにあるのではなく、生死の流れのただなかにあるということです。河のなかにある洲渚は水かさが増えますと水のなかに没してしまうこともあるでしょう。しかしどんな激流にも決して流されてしまうことはありません。そのように涅槃も、ときには生死の流れのなかで没してしまうことがあるでしょうが、しかし決して流されてしまうことはありません。


タグ:親鸞を読む
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