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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [「親鸞とともに」その72]

(4)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

「わたしのいのち」はそれぞれ別の戸籍を持ちますが、その本籍はみな「ほとけのいのち」であるとしますと、「わたしの願い」と「ほとけの願い」はどのような関係になるでしょう。「わたしの願い」は人それぞれであっても、その奥底ではみな「ほとけの願い」を持っているということにならないでしょうか。「その奥底では」と言いましたが、これを「深層意識では」と言い直すこともできます。すなわちわれらはその表層の意識において、それぞれ別々の「わたしの願い」をもって生きていますが、その意識の深層には「ほとけの願い」が潜んでいるということです。

さてしかし、「わたしの願い」はそれぞれ別であるだけでなく、しばしば自他の願いが衝突します。場合によっては、けしからん願いをもつこともあります、「あいつがいなくなればどれほどすっきりするだろう」などと。釈迦のことばとされるものにこんなのがあります、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『法句経』)と。あるいは『無量寿経』にはこんなことばがあります、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(家財道具)、またともにこれを憂ふ」と。どちらも同じように、われらは「わがもの」についてさまざまに勝手な願いをもち、それがためにいろいろと悩み苦しむと言われています。

これが「わたしの願い」の実際の姿であるとしますと、その深層に「ほとけの願い」が潜んでいるなどということはありうるのでしょうか。そこでもう一度「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係に立ち返りますと、「わたしのいのち」はそれぞれがバラバラに存在しているのではなく、縦横無尽につながりあい、そのつながりの総体が「ほとけのいのち」でした(3)。そうしますと、個々の「わたしのいのち」は他の「わたしいのち」のことについて、自分には関係ないことと切り離すことができません。


タグ:親鸞を読む
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