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美のイデア [「親鸞とともに」その74]

(6)美のイデア

一方では他人のことに責任を感じることはないと思いながら、でも現実に責任を感じてしまう自分がいるということ、ここに思いを潜めてみましょう。他人のことに責任はないと思うのは、各人はそれぞれ自立していると考えられているからです。自分の子どものことはその責任を負わなければならないのは、子どもはまだ自立しているとは言えないからです。このように「わたしのいのち」は「わたし」が自分で裁量しているという前提で社会は動いていて、法律も政治も経済もみなこの前提の上に構築されています。われらの意識の表層は「わたし」の自立という前提の上に成り立っていますから、他人のことに責任を感じることはないと思うのです。

でもその一方で現に責任を感じてしまう自分がいるのはなぜかといいますと、すでに述べてきましたように、「わたしのいのち」は各自がそれとして自立しているのではなく、他のいのちたちと縦横無尽につながりあっているのであり、その無尽のつながりによってはじめて「わたしのいのち」が成り立っているからです。しかしそのことは意識の深層に沈んでいますから、普段はそんなことを意識せずに暮らしています。ところが何かの折にふれてこの「つながりの感覚」が蘇り、見ず知らずの人のことに責任を感じてしまうのです。これが、何で責任を感じなければならないんだと思いながら、でも感じざるをえない理由です。

思い出すことがあります。プラトンの「イデア論」です。プラトンは「美しいとは何か」を誰かから教えてもらった覚えはないのに、何かを見たときにどうして「ああ、美しい」と感嘆するのかと問い、それにこう答えます。われらはこの世に生まれてくる前に「美のイデア(idea、原型)」を見ていたのだが、この世に生まれたときにそのことをすっかり忘れてしまったのだと。ところが何か美しいものに出あったとき、ふと「美のイデア」を想い起こし、それと照らし合わせて「ああ、美しい」という感嘆の声が出るのだと言うのです。神話的な説明と言わなければなりませんが、しかし的をついているのではないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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