SSブログ

遇ひがたくしていま遇ふことをえたり [『教行信証』精読(その39)]

(2)遇ひがたくしていま遇ふことをえたり

 『無量寿如来会』とは『仏説無量寿経』の異訳のひとつです。ここで『無量寿経』という経典の成り立ちについてひと言しておきますと、初期大乗経典のひとつとしてインドで生まれた『無量寿経』は中国に入ってきて何度も漢訳されます。古来「5存7欠」と言われますように、5種類の漢訳が現存し、7種類は欠落したとされます。残っている5種類の漢訳を古い順に上げておきましょう。
 1. 『仏説無量清浄平等覚経(平等覚経)』 後漢 支婁迦讖(しるかせん)訳(伝)
 2. 『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経(大阿弥陀経)』 呉 支謙訳(伝)
 3. 『仏説無量寿経(大無量寿経、大経)』 曹魏 康僧鎧訳(伝)
 4. 『無量寿如来会(如来会)』 唐 菩提流支訳
 5. 『仏説大乗無量寿荘厳経(荘厳経)』 宋 法賢訳    ( )は略称
 浄土教では伝統的に『仏説無量寿経』が重視され、親鸞もその伝統に従いますが、必要に応じて他の漢訳も参照します(『荘厳経』からの引用はありませんが、親鸞の時代にはまだ見ることができなかったのでしょう)。さて、いま引かれている『如来会』の文を、先の『大経』の文と比べますと、『大経』における前半部分が省略されている以外は、ほぼ同じと言えます。同じ経典の異訳ですから当然とも言えますが、ではどうして親鸞はほぼ同じ内容の引用を重ねるのでしょう。
 元は同じ経典とは言え、訳者によってことばの使い方も異なり、解釈の仕方にもおのずから特徴が出てきますから、さまざまな訳を対照することで理解がより深まることはよくあることです。いまの場合、『大経』では釈迦が阿難の問いかけを喜ぶことと、如来が世に出興するのは弥陀の本願を説くためであることがはっきりとは結びついていませんでしたが、『如来会』では「ゆゑにこの義を問ひたてまつる」という一文があることで、釈迦が出世の本懐を語り出す瞬間に阿難が「遇ひがたくしていま遇ふことをえた」(「序」)のであることがより明確になっています。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

本文4 [『教行信証』精読(その38)]

       第4回 教巻(その2) これ如来興世の正説

(1)本文4

 『仏説無量寿経』(『大無量寿経』、略して『大経』とよばれる経典です)からの引文につづき、『無量寿如来会』から次の一節が引用されます。

 『無量寿如来会』にのたまはく、「阿難、仏にまうしてまうさく、世尊、われ如来の光瑞(こうずい)希有なるを見たてまつるがゆゑにこの念をおこせり。天等によるにあらずと。仏、阿難に告げたまはく、善いかな善いかな、なんぢいま快く問へり。よく微妙(みみょう)の弁才を観察して1、よく如来に如是の義を問ひたてまつれり。なんぢ一切如来・2・正等覚3(しょうとうがく)および大悲に安住して群生を利益せんがために、優曇華(うどんげ)の希有なるがごとくして大士世間に出現したまへり。ゆゑにこの義を問ひたてまつる。またもろもろの有情を哀愍し利楽(りらく)せんがためのゆゑに、よく如来に如是の義を問ひたてまつれり」と。以上
 注1:「よく微妙の弁才を観察して」では意味が通りませんから、「よく観察し、微妙の弁才をもて」と読むべきでしょう。
 注2:「応」は「応供(おうぐ)」の略、供養を受けるにあたいするものという意味で如来のこと(如来十号の一)。
 注3:等正覚とも、正徧知ともいい、これも如来のこと(如来十号の一)。

 (現代語訳) 『無量寿如来会』には次のように説かれています。「阿難が仏に言われるには、わたしは如来が光り輝かれるさまをわが目で見ましてこのように思ったのでありまして、天などの教えによるのではありませんと。仏が阿難に言われるに、よろしい、よろしい、あなたの問いは実に心地よいものです。よく観察し、すばらしい弁才でこのようなことをお尋ねになりました。すべての如来はこの上ない悟りと大いなる慈悲の境地に安住しておられ、一切衆生を救わんがために、優曇華が稀に花を咲かせるように、この世に出世されるのですが、あなたは奇しくもその場に立ち会われたからこそ、このような問いを起こされたのです。またあなたはもろもろの有情を哀れみ、そのこころ安らかならしめんがためにこのことをお尋ねになったのです」と。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

無量億劫にも値ひがたく [『教行信証』精読(その37)]

(12)無量億劫にも値ひがたく

 気になるもう一つの点は、どうして如来が世に出て「道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんと」するところに出あうことが「無量億劫にも」難しいのかということです。それが「なをし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし」であるのはどういうわけかということ。親鸞は序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく」と述べていましたし、「正信偈」には「弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、信楽受持すること、はなはだもてかたし。難の中の難、これにすぎたるはなし」とあります。「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」にもかかわらず、その大悲に遇うのがどうしてそんなに難しいのか。
 少し前のところで、こう言いました、弥陀の本願は諸仏の称名を通じて衆生のもとに届けられると(釈迦も諸仏の一人として、弥陀の本願をわれらのもとに届けてくださったわけです)。そしてこうも言いました、諸仏と言っても、何も特別な人のことではなく、弥陀の本願を届けてくださった方は、たとえその方がすぐ横にいるごく普通の人であっても、その人が自分にとっての「ほとけ」であると。としますと「弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく」とされるのがますます不可解となってきます。周りに弥陀の本願を届けてくださる諸仏が満ち満ちておわすはずですから、どうして本願に遇うことが難しいのか了解しがたいと言わなければなりません。
 本願に遇うのが「難の中の難」なのは、つまるところ「気づく」ことの独特の難しさにあります。もうすでにすぐそこにあるのに、そのことに気づかない、気づけないということ。気づくのは自力ではありません、純粋に他力です。こちらからゲットするのではなく、むこうからゲットされるのです。ときどき、どうすれば本願に気づくことができますかという質問を受けることがありますが、「どうすれば」の問いは自力の世界でのみ意味を持ち、他力においてはまったく無力です。どれほど必至に気づこうとしても気づけないのに、ある日突然気づいているのです。そのとき、これまでずっと気づかなかったことにいま気づけた僥倖を喜びながら、それを「なほし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし」と感じざるをえないのです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

出世の本懐 [『教行信証』精読(その36)]

(11)出世の本懐

 阿難は釈迦の五徳瑞現を見ることができ、仏々相念の場にいあわせることができたのですが、それはまさに釈迦が「群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんと」しようとしていたそのときでした。それこそ如来が「世に出興する」わけであり、そしてそれは「無量億劫にもまうあひがたく、みたてまつりがたきこと、なをし霊瑞華のときありてときにいましいづるがごと」きことだと言います。この部分をとらえて親鸞は『無量寿経』こそ釈迦出世本懐の経典であるとするのです。
 他の数ある諸経典(天台宗における『法華経』、華厳宗における『華厳経』など)ではなく、弥陀の本願・名号を説く『無量寿経』が釈迦出世本懐の経典であることを本格的に根拠づけるには、その序分ではなく正宗分について論じることが必要になってきますが、それはこの『教行信証』という書物全体を上げてなしとげるべきことであり、冒頭の「教巻」では、まずは序分から「世に出興するゆへは、道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり」という釈迦のことばを引いて、一応の根拠としていると見るべきでしょう。
 ところでこのくだりを読んで気になることが二点あります。
 そのひとつが「よきかな阿難」と、阿難の問いを喜ぶところまではごく自然なのですが、そのあと「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」というところから、釈迦は自分のことを語っているはずなのに、何か他人事のような印象を与えるということです。そもそもみずからを語るのに尊敬語をもちいることが不自然に感じられます。経典とはそのようなもので、仏はみずからを尊敬語で語ることになっているのだと書かれてあるのを読んだときは、「へー、そんなものか」と思っただけでしたが、どうしてそうなのかは一考にあたいするのではないでしょうか。
 仏々相念のところで述べましたように、仏には阿弥陀仏とか釈迦仏というように固有の名があるとはいえ、「ほとけのいのち」としてはひとつであるということ、ここに秘密を解く鍵があります。釈迦が自分のことを「如来は」と言い、そして「したまふ」と語るのは、釈迦としてではなく「ほとけのいのち」として述べているからです。釈迦は「ほとけのいのち」として「無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

本文3 [『教行信証』精読(その35)]

(10)本文3

 さて阿難の問いに釈迦が答えるくだりです。

 ここに世尊、阿難につげてのたまはく、諸天のなんぢを教へて来して仏に問はしむるや、みづから慧見をもつて威顔を問へるやと。阿難、仏にまうさく、諸天の来りてわれを教ふるものあることなけん。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるならくのみと。仏ののたまはく、善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才をおこして、衆生を愍念(みんねん)せんとして、この慧義(えぎ)を問へり。如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀(こうあい)したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萠を拯(すく)ひ恵むに真実の利をもつてせんとおぼしてなり。無量億劫に値(もうあ)ひがたく見たてまつりがたきこと、なをし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし。いま問へるところは饒益(にょうやく)するところ多し。一切の諸天・人民を開化(かいけ)す。阿難まさに知るべし、如来の正覚は、その智はかりがたくして、道御(どうご)したまふところ多し。慧見無碍にしてよく遏絶(あつぜつ)することなし」と。

 (現代語訳) そのとき世尊は阿難に反問されました、あなたは諸天の教えを受けて、いまの問いをおこされましたか、それともみずからの智恵でわたしの気高い顔つきのことを問われましたかと。阿難は答えました、諸天の教えによるのではなく、みずからの考えでそのことをお尋ねしましたと。仏が言われるには、よろしい阿難よ、あなたの問いは甚だ心地よいものです。深い智慧と巧みな弁才で、衆生のためを思いこの問いをおこされました。如来はこの上ない大悲の心で一切衆生を哀れんでくださいます。如来が世にお出ましになるのは、教えを説いて衆生を救い、弥陀の本願という真実の利益を施そうとしてのことです。そのときに遇い、如来をみたてまつるのがどれほど難いかは、たとえば三千年に一度咲くという優曇華の咲くときに遇うようなものです。あなたがいま問われたことは世の益となり、すべての衆生の眼をひらいてくれるものです。阿難よ、よく知るがよい、如来の悟りの智慧ははかりがたく、人々を導いてやみません。その智慧は何ものにも遮られず、滞ることもありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

仏と仏とあひ念じたまへり [『教行信証』精読(その34)]

(9)仏と仏とあひ念じたまへり

 最初の引文は『無量寿経』の序分からです。序分とは、本格的な説法(正宗分‐しょうしゅうぶん‐と言います)がはじまる前に、どのような状況の下で説法が行われたかを述べる序説のことですが、親鸞は『無量寿経』が釈迦出世の本懐をあらわす真実の教であることの証拠を正宗分からではなく序分から引いてきます。阿難が登場してきます。
 阿難(アーナンダ)は釈迦の年若い従弟で、釈迦入滅まで20年余つねにその傍にあり、十大弟子の中で多聞第一とされた人ですが、その阿難がある日、釈迦が「姿色清浄にして光顔巍巍」としているさまをみて、「いまだかつて瞻覩せず、殊妙なることけふのごとくましますをば」と驚き、これはきっと釈迦が何か特別な禅定(奇特の法)に入っておられるからに違いない云々と述べる段です。
 古来ここは五徳瑞現(ごとくずいげん)の段とよばれ、五徳の意味についていろいろ注釈されてきましたが(すぐ後に出てくる憬興の『述文讃』の引文もそのひとつです)、ここで注目したいのは「去来現の仏、仏と仏とあひ念じたまへり(仏々相念)。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことをえんや」の一文です。
 釈迦がこんなにも「姿色清浄にして光顔巍巍」としておられるのは、他の仏たちと交流しておられるからに違いないと阿難は述べているのです。われらの個々のいのちはそれぞれが他から独立した「わたしのいのち」ですが(デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」というときの「われ」です)、それに対して「ほとけのいのち」はひとつに繋がりあっているということです。
 これは、これから釈迦が弥陀の本願・名号について説きはじめることの伏線となっているのではないでしょうか。釈迦は他のほとけたち(とりわけ阿弥陀仏)と「ひとつのいのち」となり、「仏と仏とあひ念じたまへ」るがゆえに、弥陀の本願・名号について、あたかも自分のことであるかのように語り伝えることができるということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

本文2 [『教行信証』精読(その33)]

(8)本文2

 弥陀の本願が『無量寿経』の「宗」であり、名号が「体」であると述べられ、次いでそのように述べる根拠が経典自体に求められます。

 なにをもつてか出世の大事なりとしることをうるとならば、
 『大無量寿経』にのたまはく、「今日世尊、諸根悦豫(えつよ)し姿色(ししき)清浄にして光顔巍巍(こうげんぎぎ)とましますこと、あきらかなる鏡の浄き影、表裏にとほるがごとし。威容顕曜(けんよう)にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩(せんと)せず、殊妙なること今(きょう)のごとくましますをば。やや、しかなり。大聖、わが心に念言すらく、今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄(せおう)、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英(せよう)、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり。去来現(こらいげん)の仏、仏と仏とあひ念じたまへり。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なんがゆゑぞ威神の光、光いまししかると(本文3につづく)。

 (現代語訳) どうして弥陀の本願・名号を説くことが釈迦出世の本懐であると知ることができるかといいますと、
 『無量寿経』にこうあります、「(阿難尊者が言われるに)今日の世尊は、身も心も喜びにあふれ、お姿は清らかで、またお顔からは光が照り輝いていますのは、一点の曇りもない鏡に透き通って見えるかのようです。そのお姿の気高い様は申上げようもありません。今日のような妙なるお姿はこれまで拝見したことがありません。そうです、世尊、わたしが思いますに、今日の世尊はとりわけまれな禅定に入っておられるに違いありません。今日の世雄は、仏のさとりの世界に入っておられるに違いありません。今日の世眼は、人々を導く行に入っておられるに違いありません。今日の世英は、もっともすぐれた智慧の境地に入っておられるに違いありません。今日の天尊は、悲智円満の如来の徳を行じておられるに違いありません。過去・現在・未来のどの仏も、仏と仏とが互いに念じあわれるということですが、いまの世尊も諸仏と念じあわれているに違いありません。そうでなければ、世尊のお姿がこのように神々しく輝いておられるのが理解できません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

南無阿弥陀仏 [『教行信証』精読(その32)]

(7)南無阿弥陀仏

 弥陀の本願とはいわば「宇宙の願い」です。宇宙全体にある願いが孕まれている。さあしかし願いというものは、それだけでは無力です、その願いが向けられている生きとし生けるものたち自身にそれが届かなければなりません。故郷にいる親の願いは、遠く離れたところで生きている子どもたちに伝わらなければ力にならないように。さて宇宙の願いはどのようにすれば隈なく伝えることができるでしょうか。願いはことばとして伝えるしかありませんが(ことばを人間の占有物と考えることはできません、生きとし生けるものたちそれぞれに、われら人間の聞き取れないことばがあるに違いありません)、願いのことばを伝えるのが第17願の諸仏です。
 「ほとけ」と言われますと、何か特別な、われらとは別種の存在(仏像として形象化されているような存在)を思い浮かべてしまいますが、第17願で「十方世界の無量の諸仏」と言われるのは、もっと身近な、ぼくらのすぐ隣にいるどなたかを指しているに違いありません。その方が「ほとけ」かどうかは、遇うことができてはじめて判明します。「あゝ、この方がわたしのほとけだ」と感じられたとき、その方が「ほとけ」です。そして、どんなときに「この方がほとけだ」と感じられるかといいますと、その方から宇宙の願いが伝えられたと思われたときです。
 さて「南無阿弥陀仏」という名号は、その六字に宇宙の願いが込められたことばです。どなたかからこのことばが聞こえたとき、宇宙の願いが自分に届いたのです。そしてその方が自分にとっての「ほとけ」です。因みに「南無阿弥陀仏」ということばは「ナモアミターバ」あるいは「ナモアミターユス」というインドのことばを漢字で表しただけであり、実際に宇宙の願いがどのようなことばで伝わるかは、その国、その土地、その人によってさまざまでしょう。宇宙の願いはひとつですが、それがどのようなことばで伝えられるかはさまざまです。
 かくして本願だけではなく、名号が必要であることがはっきりしたのではないでしょうか。宇宙の願い(本願)は、「南無阿弥陀仏」ということば(名号)として生きとし生けるものたちに届けられるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

本願と名号 [『教行信証』精読(その31)]

(6)本願と名号

 「この経の大意は、弥陀・誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり」と述べた後、「ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」と締めくくられます。弥陀の本願がこの経の「宗」であり、その名号が「体」であって、『無量寿経』は要するに弥陀の本願と名号を説いているのであると結論されるのです。
 経の「宗」と「体」という言い方には伝統があり、天台智顗にはじまるようですが、いまはそんなことに拘泥するよりも、本願と名号の関係について考えてみたいと思います。
 本願とは「一切衆生を一人あまさず往生させたい」という弥陀の願いで(本願とはプールヴァ・プラニダーナ、前の願いという意味で、弥陀がまだ因位にあったとき、すなわち法蔵菩薩のときに立てた誓願ということです)、名号はそれを「南無阿弥陀仏」の六字に約めただけですから、両者は別ものではないことはすでに述べました(4)。
 しかし両者が別ものでないとすると、本願だけでいいではないか、どうして名号が必要になるのか、という疑問が生まれることでしょう。
 これに答えるのは「行巻」ですが、先回りしてひと言しておけば、ことは第17願に関わります。「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)して、わが名を称せずといはば、正覚をとらじ」。四十八願の中心は言うまでもなく第18願で、そこでは「本願を信じ、念仏する衆生を、かならず往生させよう(若不生者、不取正覚―もし生まれずば、正覚をとらじ)」と誓われているのですが、そのひとつ前の第17願で「世界中の諸仏にわが名を称えさせたい」と誓願しているのです。これは何を意味するのか。
 これだけでは分かりにくいのですが(本格的な解明は「行巻」を待つしかありません)、諸仏が「わが名を称える」のは、弥陀の本願を一切衆生に届けるためです。名は体をあらわすと言いますように、弥陀の本願を六字の名号に込めて、それを諸仏に称えさせることにより生きとし生けるものに隈なく行き渡らせようということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

弥陀と釈迦 [『教行信証』精読(その30)]

(5)弥陀と釈迦

 ここであらためて考えておきたいのは、弥陀と釈迦の関係です。弥陀がわれらに本願名号を与え、釈迦はその本願名号をわれらに伝え聞かせてくださるということ。それが「正信偈」では「如来、世に興出したまふ所以(ゆえ)は、ただ弥陀本願海を説かんとなり〈如来所以興出世、唯説弥陀本願海〉」と詠われています。釈迦は釈迦自身の教えを説くのではなく、弥陀の本願名号を説くのであると。これの意味するところは深く、また広い。
 前に、親鸞は親鸞自身の考えを世に明らかにするのではなく、ただ法然上人から聞かせていただいた浄土の真宗を世に伝えようとしただけであると述べましたが、釈迦もまた独自の教えを説きあかすのではなく、ただ弥陀から聞かせていただいた本願名号について世に伝えるだけだということです。
 ここには真理についての重要な秘密が顔をのぞかせています。真理はただひとつであり、もうとうの昔に示されているということです。それが弥陀の本願名号であり、釈迦はそれを聞かせていただき、聞いたところをまた伝えていくだけ。真理は更新されることなく、ただリレーされていくだけということです。
 ただここで注意しなければならないのは、真理はただ一つ、弥陀の本願名号であるから、それ以外はみな虚偽であるとしてしまっては、とんでもない傲岸不遜に陥るということです。宗教にはどうしようもない排他性がつきものですが、それはそれぞれが「われが真理なり」と主張し、他を虚偽として排除することから生じてきます。かくして宗教戦争という悲劇が生まれる。
 真理はひとつです、これは動かない。でもそれを語ることばはさまざまです。釈迦はたったひとつの真理を弥陀の本願名号ということばで語ったのであり、イエスはそのひとつの真理を神の愛(アガペー)ということばで語った。こう考えることで仏教とキリスト教との無益な争いを避けることができます。
 『スッタニパータ』にこんなことばがあります、「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」(第四 八つの詩句の章)と。謎めいたことばに見えますが、真理そのものは一つであり、それに頷くことができた人は争う必要がないと言っているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0)