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たとひ世界に満てらん火にも [『教行信証』精読(その69)]

(11)たとひ世界に満てらん火にも

 さてこの引用文で印象的なのは、最後の部分、「この法を聞きて忘れず、すなはち見て敬ひ得て大きに慶はば、すなはちわが善き親厚なり。これをもつてのゆゑに道意を発せよ。たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と釈迦が弥陀の本願・名号を勧めることばで、『大経』の東方偈でもほぼ同じ言い回しで出てきます。親鸞にとって強いインパクトがあったに違いありません、さまざまなところでこのことばを引き合いに出しています。
 ただ、「弥陀の本願・名号を勧める」ということについては、注意しなければならないことがあります。「この法を聞きて忘れず、すなはち見て敬ひ得て大きに慶はば、すなはちわが善き親厚なり」ということばを、「さあ、弥陀の本願・名号を聞いて、忘れないようにしましょう、そうすれば云々」と受け取り、「そうか、じゃあ早く弥陀の本願・名号を聞いて忘れないようにしなければ」と反応することになりがちですが、ところがどっこい弥陀の本願・名号は「では、弥陀の本願・名号をお聞きしたいと思います」と身構えて聞けるものではないのです。
 これまで何度も述べてきましたように、弥陀の本願・名号はこちらからゲットするものではなく、むこうからゲットされるのです。気づいたらすでにゲットされているのが弥陀の本願・名号ですから、「さあ、聞こう」と身構えて聞けるものではありません。「たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば」という言い回しは、「どんな困難が待ち構えていようとも、それをものともせず本願・名号を聞かなければならない」と受け取るべきではありません。そもそも本願・名号は「ねばならない」世界にあるのではありません、「なるべくしてなる」世界にあるのです。
 「たとひ世界に満てらん火にも」は、どんな逆境のなかにおかれても、本願・名号を聞くことができさえすれば、「火もまた涼し」という境地になれるものだ、というように解すべきでしょう。

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一生に不退転をえん [『教行信証』精読(その68)]

(10)一生に不退転をえん

 読んでいて意味がとりにくいところがあるのは、主語が途中でクルクル入れ替わるからです。これは『大経』では東方偈(往覲偈‐おうごんげ‐とも言います)に当たる部分ですが、そこからかなりのボリュームの偈文が飛び飛びに引用されているのです。『大経』の東方偈からは「その仏の本願力、みなを聞きて往生せんとおもへば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」という有名な一節が引かれていますが(第5回―9、本文3)、それがここでは「一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。わが願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転を得ん」という弥陀のことばとなっています。
 さてこのことばをどう理解すればいいか。弥陀の本願・名号を聞くことをえた人は、みな浄土に往生し、「一生に」不退転の位につくというのですが、「一生に」とは、この世を生きているままでということに他なりません。としますと、本願・名号を聞いた人は、そのまま直ちに往生し、不退転(仏となることから退転しない)となるということです。少し前のところ(本文2)で、『平等覚経』の第十九願が引かれ、そこには「いのち終へてみなまた三悪道にかへらざらしめて、すなはちわが国に生れんこと」とありました。第十七願(『大経』の第十七願と第十八願を合わせたもの)ではそのようには言われていないのに、第十九願に(そして第十八願にも)「いのち終へて」とあるのをどう見たらいいのかを考えましたが、ここでまた同じ問題にぶつかります。
 本格的な議論は先にとっておくしかありませんが、親鸞の基本的な立場は、この引用文にある「みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転をえん」ということばをそのまま素直に受け取るものであることを予告しておきたいと思います。本願・名号を聞いたとき、直ちに往生し不退転となることをもっともストレートに表現することばは『大経』の第十八願成就文で、そこにはこうあります、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」(親鸞独自の読み)と。

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本文4 [『教行信証』精読(その67)]

(9)本文4

 さらに『平等覚経』からの引用がつづきます。

 かくのごときの人、仏の名(みな)を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹(くに)に好きところを獲ん。無量覚その決を授けん。われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、みなことごとくこの間(けん)に来到して、一生に不退転を得んと。すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有(たも)てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。悪と憍慢(きょうまん)と蔽(へい)と懈怠(けだい)のものは、もつてこの法を信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつれるもの、楽(この)んで世尊の教を聴聞せん。人に命、希(まれ)にうべし。仏、世にましませどもはなはだ値(もうあ)ひがたし。信慧(しんね)ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、すなはち見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親厚なり。これをもつてのゆゑに道意を発せよ。たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。以上

 (現代語訳) (世尊が菩薩たちに言われるには)縁あって弥陀の名号を聞くことができたものは、こころに喜びと安穏がおとずれ、この上ない利益をえるでしょうと。(それを聞いた菩薩たちに言うには)われらは弥陀の名号を聞くことでこの功徳をえられ、われらの国においても弥陀の浄土のような善い世界をえることができるでしょうと。(世尊が阿弥陀仏について言われるには)阿弥陀仏はあなたがたに必ず仏になるとの約束をされるでしょう。阿弥陀仏は次のように仰せられました、「わたしは前世に本願をたてました、わが名号を聞くことができた人は、みなことごとくわが国に来生し、わたしの願いが成就されるでしょう。さまざまな国から来生するものは、みなこの国に到り、この生において不退転の位につくことができるでしょう」と。(世尊が浄土往生を勧めてさらに言われるに)すみやかに弥陀の安楽国に往生しよう。そして無数の諸仏を供養しよう。この功徳のない人は、この経の名を聞くことができません。また清浄に戒をたもったものでなければいまこの教えを聞くことはかないません。邪悪なもの、おごりたかぶるもの、自らに閉じこもり聞こうとしないもの、怠りなまけるものはこの教えを信じることが難しい。過去の世に仏に遇うことができたものは、すすんでこの世尊の教えを聞くでしょう。人のいのちをえることは難しく、仏が世におられても遇うことははなはだ難しい。遇うことはあっても信じる智慧をもつことは容易なことではない。もし仏法に遇うことができたなら、精進して仏道を求めなさい。この法を聞くことができ、しかも忘れず、見て敬い、得て大いに喜ぶ人はわたしのよき親友です。だから菩提心をおこしなさい。たとい大火が世界に満ちていても、そのなかをすぎて法を聞くことができましたら、かならず仏となることができ、一切衆生を救うことができるのです、と。

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多生にもまうあひがたく [『教行信証』精読(その66)]

(8)多生にもまうあひがたく

 釈迦の縁起という考え方のポイントは、どんなコトもモノも、それだけで自立しているのではなく、他の無数のコトやモノとの縦横無尽の繋がりの中ではじめて成り立っているということです。
 『平等覚経』に説かれている阿闍世王の太子と五百の長者の子たちについての話に戻りますと、かれらがいま弥陀の本願に遇うことができたのは、これまで無央数劫の間、数限りない仏たちを供養してきて、前世にはすでに釈迦の弟子となっていたからであると述べられていました。これはこれまで善いことをしてきたから、いま本願に遇うという善い結果につながったという、いわゆる善因善果ということを言っているように見えます。縁起を説明するなかで「善因善果・悪因悪果」と分かりやすく言い換えられることがありますが、これには注意が必要です。いま弥陀の本願に遇うことができたことは、これまで無数の仏たちを供養してきたことと繋がっているのはもちろんですが、でも縦横無尽の繋がりのなかからそれだけを取り出すことはできないはずです。
 実際、すぐ前の引用文(本文2)で「前世に悪のためにわが名字を聞き」とありましたが、これは悪が因となって「わが名字を聞く」という善果に繋がったかもしれないということです。はかりしれない複雑な繋がりのなかで「わが名字を聞く」ことが成り立ったわけで、そこから何か特定の因子を都合よく取り出すことはできません。いわゆる因果の概念は特定の原因と特定の結果との間の一方向の繋がりを見いだそうとするものですが、それと仏教の縁起の思想とは似て非なるものと言わなければなりません。縁起の思想は、無数の錯綜した線の繋がりから「縁は異なもの味なもの」と感じているのに対して、いわゆる因果の概念は特定の一本の線を見いだすことで、それを実生活に生かそうとする発想です(この点についてはまた機会をえて戻ってきたいと思います)。
 親鸞が阿闍世王の太子と五百の長者の子たちについての経文を引いたのは「善因善果」を言おうとしてのことではなく、「ああ、弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし」(「序」)と言いたいがために他なりません。

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過去の因縁 [『教行信証』精読(その65)]

(7)過去の因縁

 「教巻」で引かれた『大経』・『如来会』・『平等覚経』の文に、仏にお遇いすることは、優曇華が三千年に一度咲くのと同じように稀なことで、難しいことだという趣旨のことばがありました。いまの阿闍世王太子と五百の長者の子たちについての話も同じ意味をもつと考えていいでしょう。阿闍世王の太子と五百の長者の子たちがいま弥陀の本願に遇うことができたのは、かれらがこれまで無央数劫の間、無数の仏たちを供養してきて、前世にはすでに釈迦の弟子となっていたからこそであるというのは、弥陀の本願に遇うことは如何に稀で困難なことであるかと言っているのです。
 過去の因縁ということ(宿縁)に意を潜めてみましょう。過去の因縁といいますと、たとえば「親の因果が子に報い」などという俚諺が頭に浮びます。
 釈迦は「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言い、これが縁起の法として仏教の中核におかれるようになりました。これは、何ごとも無数の因と縁のつながりのなかにあるということを意味し、したがって過去の無限の因縁の上に今の自分がいるということであって、親が過去になしたことが、子のありようを規定するということではありません。親が過去になしたことも、子の今日とつながる一つの因縁ではありますが、それが子のありようを一義的に決定しているわけではありません。
 そう言えば、NHKテレビでおもしろい番組がありました。人工知能(AI)にさまざまな情報を無差別に入力して、それぞれのアイテム間がどのようにつながっているかを数値化してみようという意欲的な番組でした。
 そのタイトルを忘れてしまい、内容もほとんど消えてしまいましたが、うっすらと残っているのは、ある市の病院の病床数が減ると、住民の健康度が増すという繋がりが見いだされたり、バナナの購買量が増えるという数字が示されました。そこで出演者がその繋がりにどんな意味があるのか、さまざまに思いを凝らすのですが、それを見ていてぼくの頭に浮んだのは「風が吹くと桶屋がもうかる」ということばでした。つまり、無数のアイテムはそれぞれが縦横無尽に繋がりあっているわけで、その中から、たとえば病床数とバナナの購買量だけの関係を取り出してもほとんど意味がないということです。

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本文3 [『教行信証』精読(その64)]

(6)本文3

 『平等覚経』からの引用がつづきます。

 阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じていはまく、われらまた作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなはちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまはく、この阿闍世王太子および五百の長者子、のち無央数劫をさりて、みなまさに作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと。仏ののたまはく、この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道をなしてこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養しをはりて、いままた来りてわれを供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏(かしょうぶつ)の時、わがために弟子となれりき。いまみなまた会して、これともにあひ値へるなりと。すなはちもろもろの比丘僧、仏の言(みこと)をききて、みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。乃至 (本文4につづく)

 (現代語訳) マガダ国の阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、無量清浄仏(阿弥陀仏)の二十四願を聞いて、みな歓喜踊躍して、こころの中でこう願いました、われらも仏となるとき、この仏のようになりたいと。釈迦はそれをお知りになり、その場にいた多くの比丘僧たちにこう告げられました、この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、この後はるかな未来にみな仏となって阿弥陀仏のようになるであろうと。またこう言われました、この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは菩薩の道を歩みだしてよりこれまでのはるかに長い間、みな四百億の仏を供養してきて、いままたわたしを供養している。この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、前世に迦葉仏(釈迦仏の前の仏)のとき、わたしの弟子となり、いま再びここにあい遇うことになったと。それを聞いた多くの比丘僧たちは、みな踊りあがるほどに喜んだことでした。

 この阿闍世王太子と五百の長者の子たちについての一段は『大阿弥陀経』にも出てきますが、後期無量寿経では消えてしまいます。親鸞は『大経』にはなくなったこの話を補っているのですが、そこにはどういう意図があるのでしょう。

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いのちをへて [『教行信証』精読(その63)]

(5)いのちをへて

 『平等覚経』の二十四願は、『大経』の四十八願の前半部分とかなりよく重なっています。第一願から第十六願までは一部順番が前後することはあっても『大経』とほぼ同じですが、第十七願にきまして、先に述べましたように、『大経』の第十七願と第十八願を合わせたものとなります。そして第十八願が『大経』の第十九願と、第十九願が『大経』の第二十願と重なるといった具合です。さて、『大阿弥陀経』の第四願と同じ内容の第十七願はいいとしまして、さらに第十九願が引かれるのはどういう意図からでしょう。
 この願文を読んで、まず気になりますのは、「前世に悪のためにわが名字をきき、およびまさしく道のために、わがくにに来生せんとおもはん」の「悪のために」とはどういうことかという点です。「前世為悪聞我名字」とは、前世で悪を為したことが機縁となって、名号をきくことができたということでしょう。そして「およびまさしく道のために(及正為道)」とは、その反対に救いの道をえようとしたことが機縁となって、と理解することができます。としますと、過去世に悪を為したり、善を為したことが縁となって名号を聞くことができた、ということで、名号を聞くことができた縁は善悪どちらでもありうるが、名号を聞いて喜ぶものはみなわが国に来生させようということになります。
 そしてこの願では「いのちをへて」という文言が目につきます。引用されていませんが、ひとつ前の第十八願(『大経』の第十九願に相当)でも、われを念ずるものを「いのち終はるとき(寿終時)」に来迎したいと願われています。ところがこうした文言は先の第十七願にはありません。これをどう理解すれはいいか。往生が「いのち終へたのち」であることは当然だから第十七願ではあえてふれていないだけなのか、それとも第十七願と、第十八願および第十九願との間には何らかの落差があると見るべきなのか。これはいまの段階で詳しく論じることはできませんが、先回りして結論だけを述べておきますと、親鸞は『大経』の第十八願(『平等覚経』の第十七願)と、第十九願(同じく第十八願)および第二十願(同じく第十九願)との間に「真実と方便」の違いを見ることになります(「化身土巻」)。
 ではなぜ『平等覚経』の第十九願が引用されたのかといいますと、やはり「前世に悪のためにわが名字をきき」というところが親鸞のこころを惹きつけたのではないでしょうか。過去世の因縁が善にせよ悪にせよ、それによって名号を聞くことができれば、それで往生できるというのは、何とすばらしいことかと。

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本文2 [『教行信証』精読(その62)]

(4)本文2

 さらに『平等覚経』から引用されます。

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「われ作仏せん時、わが名をして八方上下無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きて、みなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじと。われ作仏せん時、他方仏国の人民、前世に悪のためにわが名字を聞き、およびまさしく道のために、わが国に来生せんと欲(おも)はん。寿(いのち)終へてみなまた三悪道に更(かえ)らざらしめて、すなはちわが国に生れんこと、心の所願にあらん。しからずはわれ作仏せじと。(本文3につづく)

 (現代語訳) 『無量清浄平等覚経』の巻上にこうあります、「わたしが仏になるときは、わが名を世界中の仏国に聞こえるようにしたい。それぞれの国の諸仏がその弟子衆に、わたしの功徳、わが国の素晴らしさを称嘆するでしょう。天や人間、虫たちの類いまで、わたしの名を聞いて歓喜踊躍するものは、みなことごとくわがくにに往生させましょう。さもなければ仏となりません。わたしが仏となるとき、他の仏国の人間たちで、前世に悪が縁となってわが名を聞いたものも、また道をもとめてわがくにに生まれたいと思ったものも、いのち終えてのちにまた地獄・餓鬼・畜生に戻らないようにして、願いの通りにわがくにに往生させましょう。さもなければ仏となりません」と。

 『平等覚経』も二十四願経ですが、そこから二願が引かれています。前半が第十七願で、後半が第十九願です。『大経』と照らし合わせますと、前半の第十七願が『大経』の第十七願と第十八願を合わせたものに当たり、後半の第十九願が『大経』の第二十願に相当します。ひとつ前に引かれた『大阿弥陀経』の第四願と『平等覚経』の第十七願がほとんど同じであることはすぐ分かりますが、ここではそれに加えて『大経』の第二十願に相当する第十九願が引かれているわけです。

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わが名字を聞きて [『教行信証』精読(その61)]

(3)わが名字を聞きて

 『大経』に戻って言いますと、第十七願の意味は第十八願をまってはじめて明らかになり、逆に、第十八願は、第十七願があってこその願であることが了解できます。諸仏が弥陀の名号を称えるのは、弥陀の名号を一切衆生のもとに届けるためであることが明らかになり、一切衆生が弥陀の名号を聞いて歓喜踊躍することができるのは、諸仏が弥陀の名号をくまなく聞き届かせてくれるからであることが了解できるのです。かくして法蔵菩薩は生きとし生けるものを「みなわが国に来生せしめ」ようとして、その願いを名号というかたちで一切衆生に与えたことがこの上なく明瞭になります。
 第十七願は「諸仏称名の願」であり、第十八願は伝統的に「念仏往生の願」と呼ばれてきました。一方は「諸仏の称名」、他方は「われらの念仏(称名)」。このふたつをつなぐものが「聞名」です。「諸仏の称名」は、取りも直さず、「われらの聞名」であり、そして「われらの聞名」は、そのまま「われらの称名」となる。かくして「諸仏の称名」と「われらの称名」がつながるということ、これが『大阿弥陀経』の第四願から明らかになるのです。念仏の教えは、その名からして「称名」に主眼がおかれますが、実は「聞名」にこそそのエッセンスがあるということです。
 ぼくらは念仏といいますと、南無阿弥陀仏と称えることが真っ先に頭に浮びます、南無阿弥陀仏という不思議なことばを口に称えることが念仏であると。ところがこの『大阿弥陀経』の第四願はそれが思い込みにすぎないことを明かし、こう言うのです、「諸天人民蜎飛蠕動のたぐひ、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわがくにに来生せしめ」んと。南無阿弥陀仏という不思議なことばを口に称えるものを「わが国に来生せしめ」んと言うのではなく、それを聞いて「歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ」んと言うのです。
 『大阿弥陀経』が『無量寿経』の古層に属するということは、その原型であるということですが、そこでは念仏とは称名である前に聞名であるということになります。

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第十七願と第十八願 [『教行信証』精読(その60)]

(2)第十七願と第十八願

 これを読んですぐ気がつきますのは、『大経』や『如来会』では第十七願と第十八願とに分かれている願が、ここではひとつにまとめられているということです。前半の「それがし作仏せしめんとき、わが名字をもて、みな八方上下無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏をして、おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳国土の善を説かしめん」が『大経』や『如来会』の第十七願にあたり、後半の「諸天人民蜎飛蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願をえて、いまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ」が第十八願にあたります。
 そして、このようにひとつながりの願となっていることにより、『大経』や『如来会』では別の願となっている第十七願と第十八願の意味するところが俄然くっきりと浮かび上がってきます。前に検討しましたように、『大経』の第十七願は何の気なくサッと読みますと、ただ諸仏に「わが名」をほめられたいと願っているだけかのように受け取られる可能性があります。親鸞はその危険を察して、重誓偈から「われ仏道をならんにいたりて、名声十方にこえん。究竟して聞こゆるところなくば、ちかふ、正覚をとらじと」という偈文を引用したのでした。「わが名」が諸仏により咨嗟(ししゃ)されるよう願うのは、名号が世界中の衆生に聞こえるように願うからだということを確認しているのです。
 ところがこの『大阿弥陀経』の第四願では、そのような勘違いの入り込む余地はまったくありません。諸仏が称名するのは、名号を「無央数の仏国に聞かしめん」とするがためであるとはっきり書かれており、さらに、どうして名号を「聞かしめん」とするかというと、「わが名字を聞きて慈心せざる」をえない「諸天人民蜎飛蠕動の類」を「みなわが国に来生せしめ」んがためであると明記されているのです。かくして法蔵菩薩が何を願っているかが一点の曇りもなく明らかになります。
 親鸞が『大経』と『如来会』だけでなく『大阿弥陀経』からも引用しなければならなかったわけがよく分かります。

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