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本文4 [『教行信証』精読(その99)]

(12)本文4

 「易行品」からの引用がつづきます。

 問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持(しゅうじ)して心に在(お)けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致(あゆいおっち)に至ることを得とやせんと。
 答へていはく、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転をうることかくのごとしと。阿弥陀等の諸仏、また恭敬(くぎょう)礼拝し、その名号を称すべし。いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏(乃至その余の仏まします)この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定にいりて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆへに常に憶念すべしと。

 (現代語訳) ただこの十方の現在仏の名号を聞いて、それをしっかりこころにたもつことで仏の悟りから退転することがないのでしょうか。それ以外の仏や菩薩の名号によって不退転にいたることはないのでしょうか。
 お答えします。阿弥陀などの仏、あるいはもろもろの大菩薩の名を称し、一心にこころにたもてば、同じように不退転にいたることができますから、阿弥陀等の諸仏を深く敬い礼拝してその名号を称えるべきです。いままさに詳しく無量寿仏のことを語りましょう。世自在王仏(及びその他の多くの仏たち)、この諸仏はいま十方の清浄な世界におられ、みな阿弥陀仏の名号を称え、阿弥陀仏の本願をこころにたもっておられます。その本願とは、もし人がわたし、すなわち阿弥陀仏を念じて名を称え信心をたもてば、ただちに必定に入り、仏の無上の悟りをえるであろうというのですから、つねにこれをこころにたもつべきであると勧められているのです。

 さあ、ここにきて無量明など十方の現在仏とは別に阿弥陀仏の名が出てきます。龍樹としては、無量明や海徳とは別にさらに阿弥陀など無数の仏がいるということでしょうが、無量明に「十劫正覚の弥陀」を見、海徳に「久遠の弥陀」を見る親鸞の立場からしますと、それらとは別にさらに阿弥陀仏がいるとなると、話はますます複雑となり収集がつかなくならないだろうかと心配になります。

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久遠の弥陀 [『教行信証』精読(その98)]

(11)久遠の弥陀

 さてしかし、過去無数劫の仏・海徳も阿弥陀仏、西方の現在仏・無量明も阿弥陀仏ということをどう理解すればいいでしょう。
 ここで少し形而上的な思弁を許していただけるなら、海徳と無量明を「永遠と時間」の関係としてとらえることができます。すなわち海徳を「久遠の弥陀」とし、無量明を「十劫正覚の弥陀」と解するのです。まず久遠の弥陀から。そもそも阿弥陀仏はその名・アミターユス(無量寿)からして永遠でなければなりません。もし阿弥陀仏が時間の中の存在だとしますと、阿弥陀仏以前の衆生はどうなるのでしょう。弥陀の本願があって衆生の救いがあるのですから、もし弥陀の本願があるときはじまったとしますと、それ以前に生きていた衆生は救いから漏れてしまうことになります。これでは一切衆生を救うという看板に偽りありと言わなければなりません。
 しかし、われらは永遠なるものに直接あいまみえることはできません。永遠は時間のなかに姿をあらわしてはじめて遇うことができるのです。
 実際、親鸞は法然というよき人を通して弥陀の本願に遇うことができました。永遠なる本願は、法然という人物として時間の中に姿をあらわしたのです。では、法然はといいますと、善導というよき人を通して永遠の本願に遇ったのですし、その系譜はずっとさかのぼることができます。かくしてついには「十劫正覚の弥陀」に行きつくことになります。永遠の本願は「十劫正覚の弥陀」として時間のなかに姿をあらわしたのです。しかし先ほども言いましたように、十劫の昔に歴史がはじまったわけではなく、それ以前から無数の衆生が救いを求めていたはずです。ここに「久遠の弥陀」のレーゾン・デートルがあります。「久遠の弥陀」は「十劫正覚の弥陀」以前から存在し、時間のなかにその姿をあらわしていたはずです。
 こう言うべきでしょう、「十劫正覚の弥陀」というのは「久遠の弥陀」が時間のなかにあらわれた姿を言っているのであると。

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阿弥陀仏? [『教行信証』精読(その97)]

(10)阿弥陀仏?

 「易行品」から飛び飛びに引用されていますので、その流れが分かりにくいかもしれません。大きく三つの部分に分けて要約しますと、第一に、阿惟越致(あゆいおっち、不退転)に至るには難行道と易行道があるとし、第二に、易行により疾く阿惟越致に至るには、十方諸仏の名号を称えるべきであるとされます。とりわけ西方の無量明という仏を上げ、その名を聞くものは直ちに不退に至ると言われます。そして第三に、過去無数劫(むしゅこう)に海徳という名の仏がおわし、現在の十方諸仏(そのなかに無量明も含まれます)はみなこの海徳仏にしたがって願を立てたと述べられます。
 理解しづらいのが、第二のところで出てくる無量明という仏と、第三のところの海徳という仏の関係です。龍樹にとっては、海徳は過去無数劫の仏であり、無量明はその教えをうけた現在仏の一人ということで問題ないのですが、それを引用している親鸞のこころのうちはどうであったのか、これが気になるところです。親鸞が十方諸仏のなかで特に西方の無量明を取り出して引用したのは、この仏を阿弥陀仏と見ているからであるのは明らかでしょう。親鸞が依拠する『大経』と、龍樹が引き合いに出す『宝月童子所聞経』とではさまざまな違いがあっても、西方の仏であること、その名が無量明であることからして、親鸞としてはこの仏が阿弥陀仏であることは動かないところです。
 としますと海徳仏はどうなるのでしょう。「易行品」では、十方の諸仏を讃嘆したのち最後に(いわばついでのように)、これら十方の諸仏はみな海徳という名の過去無数劫におわした仏の教えにしたがって願を立てたと述べられているのですが、親鸞はあえてこの部分を引用しているのです。その気持ちを忖度してみますに、現在の十方諸仏がみなそれにならったとされる海徳の本願が、阿弥陀仏の本願と見事に重なりあうからに違いありません。「寿命が無量であること」、「光明が無量であること」、「国土が清浄であること」、そして何より「名を聞いたものはかならず往生できること」、これで弥陀の四十八願がカバーされるではありませんか。ここに親鸞の目が吸い寄せられたであろうことは容易に推測できます。

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とく不退転地に至らんとおもはば [『教行信証』精読(その96)]

(9)とく不退転地に至らんとおもはば

 これまでの「入初地品」、「地相品」、「浄地品」からの引用文は、菩薩が初地に入るというのはどういうことかをさまざまな角度から明らかにするものでした。初地とは仏の家に生まれることであり、したがってそれは歓喜地に他ならないこと、その喜びは初地に入ると必ず仏となることに定まるから生じるということ(必定)、そして必定の菩薩は仏への信を深め、また大悲のこころをもって衆生を安穏にするということが縷々述べられてきました。そしてこの「易行品」にきて、菩薩が必定(ここでは阿惟越致すなわち不退とでてきますが同じです)に入るのに難行道と易行道があるとし、「もしひととく不退転地に至らんとおもはば、恭敬の心をもて執持して名号を称すべし」と説かれるのです。
 浄土教において注目されるのが、「易行品」におけるこの教説であることはすでに述べました。全17巻、35品の『十住論』から、第5巻の第9「易行品」を特に取り出し、ここに浄土の教えが説かれているとされるのです(浄土真宗聖典の「七祖著作」の第一に『十住論』が取り上げられますが、ただこの「易行品」に限定されています)。そして「易行品」における説き方も、「信方便の易行をもて、とく阿惟越致にいたる」ことについては、かなり微妙な言い回しがされていることを見逃すわけにはいきません。
 この引用文の前に次の一節があります、「汝、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得ることありやといふは、これすなはち怯弱下劣(こうにゃくげれつ)の言なり。これ大人志幹(だいにんしかん)の説にあらず。汝、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし」と。阿惟越致地に至るのは「ほんとうは」はなはだ難しく、久しい修行によってようやくできることであり、そこに易行によって疾く至ろうなどというのは大志をいだく大人の考えることではないが、それでもと言うのなら「特別に」説くことにしよう、と言っているのです。  
 「怯弱下劣」ということばには複雑な感慨がおこらざるをえませんが、ともあれこの後に、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし」という有名な一段が続くのです。

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本文3 [『教行信証』精読(その95)]

(8)本文3

 さていよいよ「易行品」からの引用です。

 またいはく、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致(あゆいおっち、不退転)に至るものあり。乃至 もし人疾(と)く不退転地に至らんと欲はば、恭敬(くぎょう、つつしみ敬う)の心をもつて執持(しゅうじ、しっかり持つ)して名号を称すべし。もし菩薩、この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の無上の悟り)を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。乃至 西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧あきらかにして照らすところ辺際なし。それ名を聞くことあるものは、すなはち不退転を得と。乃至 過去無数劫(むしゅこう)に仏まします。海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みなかれに従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きてさだめて仏にならんと。乃至

 (現代語訳) 仏法には無数の門があります。世間の道に難と易があり、陸路を歩くのは苦しく、水路を船でゆくのは楽しいものですが、菩薩のゆく道も同様で、一生懸命に努力して修行するものもありますが、信心という易しい手立てで、すみやかに不退にいたるものもあります。(中略)もしすみやかに不退の位に至ろうと思うのでしたら、あつく敬うこころをもって仏の名号を信じて称えるのがよろしい。菩薩がその身のままで不退に至り、仏の悟りを得ようと思うのでしたら、まさにこの十方の諸仏を念じて、その名号を称えることです。それは『宝月童子所聞経』の「阿惟越致品」に説かれている通りです。(中略)西方に善という名の仏土があり、その仏を無量明と言います。その智慧の光明は明らかで、照らすところ限りがありません。その名を聞くものは直ちに不退転の位となります。(中略)はてしない過去に海徳という名の仏がおわしました。現在のもろもろの仏たちはみな彼にしたがって願をおこされたのです。すなわち、寿命に限りなきよう、光明の照らすところに限りなきよう、国土が清らかでありますよう、そしてわが名を聞くものはかならず仏となりますように、と。

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三縁の慈悲 [『教行信証』精読(その94)]

(7)三縁の慈悲

 さて、信心の深まりとともに、慈悲のこころも深まっていきます。「菩薩、初地にいればもろもろの功徳の味ひをうる」という自利と、「慈心はつねに利事をもとめて衆生を安穏す」という利他とは一体不離です。引用は「慈に三種あり」で切られていますが、その三種といいますのは、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の三つです。この三種の慈悲について曇鸞が『論註』でこう述べています、「慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆへなればなり」と。親鸞は「真仏土巻」でこの文を引用しています。
 慈悲のこころがどんなときに働くかを考えてみますと、そこには何らかの繋がり(縁)があるものです。いちばん強く働くのは血縁のものに対してで、それが友人・知人へ、さらには地縁へと広がっていくでしょう(衆生縁です)。そのことに思い至りますと、そんな繋がりがなくても「一切衆生のために」慈悲をはたらくのがほんとうであると思います。差別のない慈悲こそ真の慈悲ではないか、と(法縁です)。さあしかし、ここにおいても「ねばならない」という意識が立っています。規範としての慈悲から離れてはいません。
 それに対して、もう慈悲をはたらくという思いなどないのに、慈悲のはたらきとなっているのが無縁の慈悲です。
 これはもう「われらの慈悲」とは言えない慈悲です。「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なり」(『歎異抄』第8章)とありますように、無縁の慈悲は「わがはからひにてつくる」慈悲ではありませんから、非慈悲と言わなければなりません。「ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに」、われらにとって非慈悲です。
 『論註』に「安楽浄土はこの大悲より生ぜる」とありますように、弥陀の慈悲こそ大悲であり、それがわれらに「おいて」あらわれたものが無縁の慈悲です。

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信力うたた増上し [『教行信証』精読(その93)]

(6)信力うたた増上し

 仏の「しるし」があらわれていることに気づくこと、あるいは「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きていると気づくこと、これが「信ずる」ことに他なりませんが、これはただ一たびのことで、二度も三度もあることではありません。「信楽開発の時剋の極促」(「信巻」)と親鸞がよぶ不思議な一瞬で、これが必定に入るということ、正定聚となるということです。善導のことばでは「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなはち生ず)」で、これまでの古いいのちが終わり、新しいいのちがはじまります。
 このように、信はあるか、さもなくばないか、気づきがあるか、もしくはないか、そのどちらかですが、しかしそれは、信をえた後にその信が増していくことと矛盾するわけではありません。増すというより、深まるという方がいいかもしれません。「わたしのいのち」を「ほとけのいのち」と感じる、その感受性が深まっていくように思えるのです。「ほとけのいのち」の味わいが深まるというべきでしょうか。親鸞は「信心さだまるとき、往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と言いますが、これは「信心はじまるとき、往生またはじまる」と言いかえることができます。信心はあるときはじまり、それが往生の旅のはじまりに他なりません。その旅のなかで信心は次第に深まっていくのです。
 男と女の愛を考えてみますと、愛もあるときはじまります。そして愛の旅(結婚生活)のなかでさまざまなことがおこり、それをもとにして愛はおのずから深まっていくでしょう。はじまりのときの燃えるような激しさは影を潜めるでしょうが、その味わいは深みを増していくに違いありません。そのように信心も「信楽開発の時剋の極促」の歓喜踊躍はいつしかおさまりますが、往生の旅のなかでさまざまな経験を重ねることによって、その味わいにコクと旨みが加わっていきます。そして、愛の旅はその途中で突然たち切られることがありますが、往生の旅は深まりこそすれ途中で終わりを告げることはありません。本願・名号に遇うことで、新しいいのちがはじまった以上、もう古いいのちに戻ることはありません。それが不退ということです。

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本文2 [『教行信証』精読(その92)]

(5)本文2

 今度は「浄地品」からの引用です。

 またいはく、「〈信力増上〉はいかん。聞見するところありて、かならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づくと。
 問うていはく、二種の増上あり。一には多、二には勝なり。いまの説なにものぞやと。
 答へていはく、このなかの二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味はひを得るがゆゑに、信力転増す。この信力をもつて諸仏の功徳無量深妙なるを籌量(ちゅうりょう、思いはかる)してよく信受す。このゆゑにこの心また多なり、また勝なり。〈深く大悲を行じ〉とは、衆生を愍念(みんねん、哀れむ)すること骨体に徹入するがゆゑに名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆゑに名づけて大とす。慈心はつねに利事(衆生利益)をもとめて衆生を安穏す。慈に三種あり」と。乃至

 (現代語訳) また「信力が増上する」というのはどういうことでしょうか。お答えしましょう。聞き、また見るところをしっかり受け止め、疑うことがないのを増上といい、殊勝というのです。
 増上には「多」という意味と「勝」という意味がありますが、いまの場合はどちらでしょう。
 お答えします。どちらもです。菩薩は必定に入りますと、さまざまな功徳の味わいをえますから、信じる力がますます増えます。その信力によって諸仏の功徳のこの上なく深く妙なることを思いはかりますから、よく心に受けとめることになります。ですから多であるとともに勝でもあるのです。「深く大悲を行じて」とは、菩薩が衆生を哀れに思うこころが骨身に徹していますから「深く」と言うのです。一切の衆生のために仏道をもとめますから「大」悲と言うのです。菩薩の慈悲のこころはいつも衆生のためを思い、衆生を安穏にしようとしているのです。慈悲に三種あります。

 これは「信力転増上、深行大悲心(信力うたた増上し、深く大悲の心を行じて)」という『華厳経』の文を龍樹が注釈しているところです。

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仏の「しるし」 [『教行信証』精読(その91)]

(4)仏の「しるし」

 必定の菩薩(親鸞的には正定聚です)には、仏の「しるし」があらわれているということ、この点についてもう少し考えてみたいと思います。この「しるし」は外に見えるものではなく、本人が気づいているだけのかすかな「しるし」です。これまでつかってきた「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」ということばで言いますと、「わたしのいのち」は誰にも見えます。みなそれぞれに「わたしのいのち」をもち、それを何よりも大事にしています。「いのちあってのものだね」と言うときの「いのち」で、これがなくなればすべてが消えてしまう肝心要のものです。
 それに対して「ほとけのいのち」は、どこかにあって誰にも見えるようなものではありません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると気づいたとき、はじめてその姿をあらわすのです。これが必定の菩薩には仏の「しるし」があらわれるということです。必定に入るということ(正定聚になるということ)は、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると気づくことで、それが仏の「しるし」があらわれることに他なりません。ですからこの「しるし」はそれに気づいた人にしかなく、気づかなければどこにもありません。
 「われかならず作仏すべし」とは言うものの、仏になるのは「これから」ですから、それはあくまで「おそらく」、あるいはせいぜい「まず間違いなく」にすぎません。しかし必定の菩薩には「いますでに」仏の「しるし」があらわれています。それはもう天地がひっくり返っても確かなことですから、「その心歓喜おほし」です。そこから言いますと、「われかならず作仏すべし」だから「歓喜おほし」と言うよりも、「いますでに」仏の「しるし」があらわれているから「歓喜おほし」と言うべきです。たとえ実際には仏になれないとしても、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているのですから、それはそれでいいではありませんか。親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(『歎異抄』第2章)と言うのは、その気持ちからに違いありません。

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われこの相あり [『教行信証』精読(その90)]

(3)われこの相あり

 それを分かりやすく教えてくれるのが「たとへば転輪聖子の転輪王の家に生れて」という譬えです。
 転輪聖子に「われかならず転輪王になるべし」という喜びがあるのは、「いますでに」転輪王の相があるからです。転輪王になるのは「これから」ですが、「いますでに」転輪王の相があるということですが、さて転輪王の「相」とは何でしょうか。それを「徴候」と言いかえてはどうでしょう。「徴」という字は「ほのかに示す」という意味を持ち、何かの「しるし」があらわれているということです。転輪聖子には転輪王としての「しるし」がすでにあらわれていて、それがあるから「われかならず転輪王になるべし」という歓喜がある。それと同じように、必定の菩薩に「われかならず作仏すべし」という喜びがあるのは、仏の「しるし」が「いますでに」あるからです。仏になるのは「これから」であっても、「いますでに」仏の「しるし」があるということ。
 そう言えば親鸞は関東の弟子への書簡のなかで、この「しるし」ということばをつかって語っていました。「仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ」(『末燈鈔』第20通)。弥陀の本願という「くすり」があるのだから、貪欲・瞋恚・愚痴という「毒」を好んで飲もうという、いわゆる「造悪無碍」の誤った考えに陥っている人に対して、本願・名号に遇うことができたら「この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」があらわれるはずだと諭しているのです。好んで「毒」を喰らおうという人にはその「しるし」がないと。
 本願・名号に遇えた人には、すでに仏の「しるし」があらわれていて、それはまた「この世のあしきことをいとふしるし」でもあるというのです。

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