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摂生と証生 [『教行信証』精読(その161)]

(8)摂生と証生

 二つ目の文ですが、あまりに短い引用で、これだけで意味を取るのは難しいと言わなければなりません。そこで摂生増上縁と証生増上縁の意味をはっきりさせておきましょう。
 摂生増上縁は衆生を往生浄土させるという利益で、証生増上縁は衆生が往生浄土できることを証明するという利益ですから、前者の利益を与えるのは阿弥陀仏であるのに対して、後者の利益を与えるのは釈迦をはじめとする諸仏です。で、いまの「善悪の凡夫、回心し起行してことごとく往生を得しめんと欲す」という文は、主語の釈迦が略されていますが、善悪の凡夫が弥陀の本願を信じ念仏して往生浄土できるように釈迦がはからってくださっていると言っているのです。だからこれは証生増上縁ということになります。
 摂生と証生の関係は、弥陀と釈迦(をはじめとする諸仏)の関係ということですが、これについて考えを廻らしてみましょう。弥陀が摂生し、釈迦が証生する、そのことを親鸞は「如来(釈迦のことです)世に興出したまふゆへは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり」(「正信偈」)と表現しています。釈迦はただ弥陀の本願を説くためにこの世に現れてくださったということですが、これは何を意味するのでしょう。ことは釈迦の悟りに関わります。
 ひろさちや氏の『大乗仏教の真実』という本を読みました。かなりくせの強い本だと思いましたが、教えられることも多くありました。その一つが「仏」、「ブッダ」についての次のくだりです。「さて、釈迦は三十五歳にして覚りの境地に達して仏になったわけだが、いったい彼は何を悟ったのか?じつは『釈迦は何を悟ったか?』と問うこと自体が、釈迦と仏教を誤解させることになるのだ。というのは、サンスクリットの“ブッダ”という語は、『目覚める』といった意味であり、これは自動詞である。正しくいえば、自動詞“ブドゥ”の過去受動分詞。だから“ブッダ”は『目覚めた人』と訳すべき言葉である。ところが“ブッダ”を『悟った人』と訳せば、これは他動詞であるから、当然に『何を悟ったのか?』ということになる」。
 釈迦は何かを「悟った人」ではなく、ただ「目覚めた人」であるということ、これは示唆に富みます。

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すでに往生していると気づく [『教行信証』精読(その160)]

(7)すでに往生していると気づく

 さて、まだ願船に乗っていなかった人が、あるとき願船に乗せていただくことになったとしますと、それは時間の中のある一点ですから、当然それがいつのことかが問題となります。それは「信心をえたそのとき」であるのか、それとも「命終らんとする時」であるのか。しかし、もうずっと前から願船に乗せてもらっているのに、それに気づいていなかったが、あるときふとそれに気づくとしますと、願船に乗っていることは「もうすでに」であり、「信心をえたそのとき」でも「命終らんとする時」でもありません。ただ、それに気づくのは時間の中のある一点であり、それが「信心をえたとき」に他なりません。
 ところで、浄土真宗の伝統的な教学では往生に二つあると言われます。一つは即得往生で、もう一つは難思議往生。即得往生とは「信心をえたそのとき」往生が約束され正定聚となることを意味し、難思議往生とは実際に浄土へ往生することで、これは「命終らんとする時」とされます。このようなかたちで願船に乗せてもらうのが「信心をえたそのとき」であるのか、「命終らんとする時」であるのかという厄介な問いに答えているのです。もう言うまでもないでしょう、これは「あるとき願船に乗せていただく」という前提に立っています。
 しかし「もうすでに願船に乗せてもらっていることにあるとき気づく」としますと、話はまったく違ってきます。
 その場合、往生そのものは「信心をえたそのとき」でも「いのちおはらんとするとき」でもなく、もうとうの昔から往生しているのです。ただ、これまではそれにまったく気づいていなかったが、いまそのことに気づいた。それが信心をえるということです。そして往生(願船に乗っていること)は、それに気づいてはじめてその姿を現しますから、その意味では、「信心をえたそのとき」に往生がはじまると言うことができます。経に即得往生とあるのはそのことで、正定聚とは(往生を約束された人ではなく)すでに往生していることに気づいた人のことを指します。
 往生が「信心のとき」であるのか、それとも「命終らんとする時」であるのかという論争はもはや意味がないと言わなければなりません。

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命終らんとする時 [『教行信証』精読(その159)]

(6)命終らんとする時?

 一つ目の文ですが、善導が摂生増上縁(念仏の衆生を摂取し往生させる縁)を示すものとして真っ先に上げているのが第18願で、善導流に読み替えた形で表されています。前の『往生礼讃』の加減の文とほぼ同じで、至心信楽が省略され、乃至十念の部分がより詳しくふくらまされていますが、それはいいとしまして、やはり気になるのがそれに続く一句「命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ」です。
 このことばから分かりますのは、善導は『観経』を下敷きとして『大経』を読んでいるということです。といいますのも、『観経』では一貫して往生を臨終のときとしていますが、それに対して『大経』では第18願成就文として「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」(「信巻」の読み)とあるからです。
 この文を素直に読みますと、弥陀の名号が聞こえて信心歓喜し、浄土に往生したいと思う、そのときに(「すなはち」)往生できるとしか理解できないのですが、善導は「命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ」と言います。こんなふうになるのは『観経』を下敷きとして『大経』を読んでいるからとしか考えられません。『観経』の「臨終のときに往生」というコンセプトを抱きしめながらこの文を読みますから、「命終らんとする時」になってしまうのです。
 先の「玄義分」のことば、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて」を手がかりに、「すなはち」と「命終らんとする時」について思いを潜めてみましょう。
 「大願業力に乗じて」と言うとき、これまで願船に乗っていなかった人が、このたび乗せていただくこととなったと理解できます。それが「乗る」ということばの普通のつかい方でしょう。しかし「大願業力に乗じて」は、こんなふうに理解することもできます。もうとうのむかしから願船に乗っていたのだが、これまではそのことにまったく気づかないままだった。ところがあるときそれにふと気づいた、と。願船の上にいると気づいてはじめて願船の上にいることになりますから、そのことをもって「願船に乗る」と言ってもおかしくはありません。

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本文2 [『教行信証』精読(その158)]

(5)本文2

 『観経疏』「玄義分」につづき、『観念法門』から引用されます。

 またいはく、「摂生(せっしょう、おさめ取り往生させる)増上縁といふは、『無量寿経』の四十八願のなかに説くがごとし。仏ののたまはく、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずば正覚を取らじと。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとする時、願力摂(せっ)して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく」と。
 またいはく、「善悪の凡夫、回心し起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生(しょうしょう、往生を保証し証明する)増上縁なり」と。以上 

 (現代語訳) また『観念法門』にこうあります。五種増上縁の中の摂生増上縁といいますのは、『大経』の四十八願に説かれている通りです。その第18願に、わたしが仏となるとき、十方の衆生がわが浄土に往生したいと願い、わが名号をたった十声だけでも称えるようにして、わが本願力によりかならず往生させよう、もし往生できないようならわたしは正覚をとらない、とあります。これは往生を願う行者は、いのち終わらんとするときに、本願力に摂取されて往生できるということで、だからこれを摂生増上縁と名づけるのです。
 またこうも言われます。釈迦は、善人であれ悪人であれ、あらゆる凡夫が自力の心をひるがえし、念仏もうそうという気持ちにならせて往生させようとされますが、これも証生増上縁です。

 すでに『往生礼讃』において、現生の利益として滅罪・護念・摂生・証生の利益を上げていましたが、ここ『観念法門』ではそれに見仏を加え、五種増上縁として整理されます(これが『観念法門』の中心テーマと言っていいでしょう。因みに増上縁とは、弥陀の本願力がそのような利益のすぐれた因縁となるということです)。そこから二つの文が引かれ、一つは摂生増上縁、もう一つは証生増上縁についてです。

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選択本願という行 [『教行信証』精読(その157)]

(4)選択本願という行

 ぼくらは「行」と聞きますと、当然ぼくらが何かをすることであると思います。それ以外にどんな行があるのかと思います。ですから、願だけで行がないという批判は実にもっともで、ただ願うだけで何もしないのでは、願いがかなえられるわけがないと思う。願うだけでそれがかなうなどというのは夢のまた夢と言わねばなりません。さてしかしこの常識は、ぼくらが「ほとけのいのち」という大きな船の上にあることに気づいていないという前提のもとで成り立っています。ぼくらは「わたしのいのち」を自分の力で一生懸命操っていると思っており、その「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」というとんでもなく大きな船の上にあるなどと思いもしません。
 ところがあるとき途方もなく大きな船に乗っていることに気づくのです。前に何万トンという巨大なクルーズ船に乗ったときのことをお話しましたが(第9回、10)、船があまりに大きいと自分が船に乗っていると感じられません。普通に街中で生活しているような感覚です。ところがふとした拍子に、船がかなりのスピードで動いていることに気づく。それはたとえば、自分のキャビンに戻り、小さな窓から海原を見るようなときです。それと同じように、ひたすら「わたしのいのち」を生きていると思っていたのに、それは「ほとけのいのち」の上でのことなのだと気づくことがあるのです。
 行といえば「わたしの行」しかないと思っていたのに、「わたしの行」は実は「ほとけのいのち」の上でなされているのであり、それは「ほとけの行」に他ならないことに気づくのです。親鸞が「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」というのはこのことです。選択本願とは「ほとけの願」であり、「ほとけの行」です。「わたしの願」も、「わたしの行」も、その実、みな「ほとけの願」、「ほとけの行」であるということです。南無阿弥陀仏と称えるのは「わたし」に違いありません。しかし、実のところそれは「ほとけの願」、「ほとけの行」であるのです。

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すなはちこれ其の行なり [『教行信証』精読(その156)]

(3)すなはちこれ其の行なり

 さて二つ目の文、「またいはく、南無といふは云々」が六字釈とよばれる有名な箇所ですが、これは「玄義分」の後半において、摂論家(無着の『摂大乗論』に依る学派)のいわゆる別時意説を取り上げ、それに答えるなかに出てくるものです。別時意説といいますのは、すでに道綽のところで触れましたように、『観経』に五逆・十悪の罪人も十念の念仏で往生できると説かれているのは方便の説であり、遠い将来(別時)のことをあたかもすぐに往生できるように説いているだけとするものでした。道綽はそれに対して、今生では五逆・十悪の罪を重ねてきたとしても、それに先立つ世において善業を積んでいるから臨終の十念でただちに往生できるのだと答えていました(第10回、5)。これはしかし反論としていかにも弱いと言わなければなりません。
 一方、善導は別時意説の本質が「念仏というのは、ただ願いだけがあって行がともなわないから(唯願無行)、往生できるはずがない」という批判であると捉え、それに対して南無阿弥陀仏と称えるのは、ただ願だけではなく行も伴っていると反論しているのです。たしかに「南無」は帰命であり発願だけれども、「阿弥陀仏」が行だから、唯願無行ではなく、願も行もそろっていて、したがってかならず往生できるというのです。さて「南無」が発願であることはいいとして、「阿弥陀仏」が行であるというのはどういうことか、これがピンときません。
 先回りになりますが、親鸞はこの少し後で、善導の六字釈にさらに字訓釈を加えながら、独自の解釈を打ち出していますので、それを参照したいと思います。親鸞はこう言うのです、「即是其行(すなはちこれ其の行なり)といふは、すなはち選択本願これなり」と。善導が「阿弥陀仏が行である」と言っていたのを、親鸞は「選択本願が行である」と言い直しているのです。さあしかし、こう言い直されてもストンと肚に落ちるというわけにはいきません。弥陀の本願が行であるとはどういうことか、その意味するところを考え続けたいと思います。

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みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて [『教行信証』精読(その155)]

(2)みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて

 このことばで思い出されるのが曇鸞『論註』の文です。「覈求其本(かくぐごほん)釈」とよばれるところで、曇鸞は「それにしてもどうして念仏することですみやかに往生できるのか」と問い、それに対して「覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす」と答えます。われらが念仏することで往生するのは間違いないが、しかしその本には阿弥陀如来の本願力がはたらいているのだということです。その根拠として48願から3つの願を取り上げるのですが(三願的証といいます)、その最初に第18願を上げ、この願がある以上、「仏願力によるがゆゑに、十念の念仏をもつてすなはち往生を得」ることは確かであると述べます。善導は曇鸞のこのことばを念頭に置いていたに違いありません、ここにおいてまったく同じ趣旨のことを述べています。
 本文のなかでは省略しましたが、親鸞は「(大願業力に)乗じて」のところで「乗の字、…駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり」と註を加えています。これまでもありましたように、親鸞は大事な字句については字書に当たり、その音訓を調べて、そこから思索を深めていこうとしますが、ここでは「乗」という字に着目して、「駕」「勝」「登」「守」「覆」の訓を上げているのです。さて、これらは総じて乗る側が乗られるものの上に立ち、コントロールするというニュアンスですが、大願業力に乗じるというときはそれが逆転して、大願業力の方が乗るわれらを操り、コントロールしているというイメージではないでしょうか。
 大願業力という乗り物は、しばしば大きな船に譬えられますが(「難度海を度する大船」)、この船はわれらが操ることができるようなものではなく、如来すなわち宇宙の法に操られています。われらはその大船の上にあって運ばれながら、それにまったく気づくことなく、みずからの意思でおのが人生を切り拓いていると思い込んでいるのです。ところが、あるときふと目が覚めて、そうか、すべては如来の大船の上のことであったか、と思い当たる。これが「大願業力に乗じて」ということです。われらが大願業力という乗り物を操るのではありません、大願業力がわれらを操っていることにふと気づくのです。

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本文1 [『教行信証』精読(その154)]

         第12回 帰命は本願招喚の勅命なり

(1)本文1

 善導の『往生礼讃』からの引用のあと、今度は『観経疏』「玄義分」から有名な六字釈を含む二文が引用されます。

 またいはく、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁(強縁)とせざるはなし」と。
 またいはく、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向(往生を願うこと)の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。

 (現代語訳) また「玄義分」にこうあります。弘願といいますのは『大経』に説かれている通りで、一切の衆生が往生できますのは、みな阿弥陀仏の本願力にのせていただき、その強縁によるのだということです。
 さらにこうあります。南無阿弥陀仏の南無といいますのは、われらが如来の命にしたがうことであり、また命にしたがって往生を願うことです。そして阿弥陀仏がその行ですから、願と行が揃い、かならず往生できるのです。

 『観経疏』は字のごとく『観経』の注釈ですが、「玄義分」、「序分義」、「定善義」、「散善義」の4巻に分かれます。「玄義分」といいますのは、経の注釈に入る前に、『観経』を読むにあたってもっとも大事なことを前もって述べておくということです。そこから二つの文が引かれているのですが、一つ目の文は、わが子の阿闍世に幽閉され悲嘆にくれる韋提希夫人が釈迦に安楽の地を求めたのに対して、釈迦が要門(定善・散善の二門)を説き、弥陀が弘願を明らかにしたと述べられた後につづきます。要門はこの『観経』に詳しく説かれるが、弘願は『大経』において説かれているというのです。弘願とは弥陀の48願のなかでも特に第18願を指しますが、善導はその本質が「一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるはなし」という点にあると教えてくれます。

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畢竟成仏の道路にて [『教行信証』精読(その153)]

(17)畢竟成仏の道路にて

 先ほど言いましように、正定聚とは「往生が正しくさだまったもの」と理解されることが多いのですが、正確には「仏となることが正しくさだまったもの」という意味です。往生と成仏をひとつとしてしまいますと、正定聚は「往生すなわち成仏がさだまったもの」となりますが、はたして往生と成仏は同じでしょうか。往生即成仏とするのが浄土真宗の通説かもしれませんが、曽我量深氏の言われるように、往生と成仏は別とする方が親鸞の考えに沿うと思います。
 たとえば親鸞は『高僧和讃』において曇鸞『論註』の文をもとにこう詠っています、「安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり」。「安楽国に生まれるは、ついに仏になるための、この上のない手立てとて、諸仏浄土をすすめたり」ということですが、この(往生は)「畢竟成仏の道路にて」ということばを手がかりに往生と成仏の関係を考えてみましょう。まず目を引きますのが「道路」という文字です。往生は道路であるということ、これは示唆に富みます。
 ぼくらはともすると往生をある時の一点としてとらえてしまいます。これは往生の「生」という文字がもたらす感覚でしょう。この世に生まれてきたのがある一点であるように、浄土に生まれるのもある一点であるととらえるのです。しかし曇鸞は、そして曇鸞と一体の親鸞は、往生を長い道のりであると言います。そしてこの道のりは「畢竟」するところ、つまり、最終的に行きつく先は成仏であると言うのです。長い道のりを旅してゆき、最後には成仏という終着点に至る、これが往生であると。
 このように見ますと、往生とは成仏という終着点をめざす旅であり、正定聚とは往生の旅人であるということになりますが、さてこの旅はいつはじまるのか。親鸞はこう言っています、「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)と。「信心のさだまるとき」とは「信心のはじまるとき」に他なりませんから、「往生さだまる」も「往生はじまる」と読み替えるべきです。したがって信心のはじまるとき、つまり本願に遇うことができたそのとき、往生の旅ははじまるということになります。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。

                (第11回 完)

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現益と当益? [『教行信証』精読(その152)]

(16)現益と当益?

 今度は『小経』を出して、「もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顛倒せず、すなはちかの国に往生することを得ん」という利益、すなわち摂生の益をあらためて確認します。そしてさらに『小経』には、六方世界の無数の諸仏たちが、弥陀の名号を称えることでかならず往生できることをそれぞれの国において証誠しているということ、すなわち証生の益が説かれているとします。これで『観念法門』にいう五種増上縁のうち、見仏増上縁を除いた四つの増上縁がでそろったことになるわけです。
 すでに述べましたように、それら五種増上縁の要となるのが摂生の益ですが、問題はこの益を受けるのがいつのことかということです。上にあげました文で「命終らんとする時」、「この人終らん時」と、弥陀の来迎をうけ往生するのは臨終の時であると繰り返し説かれていますから、摂生の益をうけるのは臨終であることになりますが、さて臨終に往生するとしますと、それがなぜ現世の利益なのか。そこで現益(現世の利益)と当益(来世の利益)の区別が持ち出されるのが普通で、往生そのものは当益であるが、それが約束されるのが現益であるとされるのです。そして往生がさだまったものが正定聚であるとされます。
 かくして現世で往生がさだまり、来世に往生するということになります。
 こう理解しますと、頭がすっきり整理されたような気になりますが、さてしかし往生はさだまったものの、いまだ往生していない状態というのはどんなものでしょうか。ぼくには臨終に出航する船の切符をしっかり握りしめながら、ひたすら船出のときを待つ人の姿が浮んできます。船に乗って旅立つという喜ばしい出来事は未来のことで、現在はそのときを待ちながら、肝心のときにズッコケて乗船できないなどということがないように備える。常日頃の念仏は、本番である臨終にしっかり念仏できるようにするためのリハーサルにすぎません。これが親鸞の理解した正定聚の姿でしょうか、ぼくには到底そうは思えません。

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