SSブログ

如来の本願力 [『教行信証』精読2(その89)]

(2)如来の本願力

 ここに引用されている文は『論註』最後の「利行満足」と名づけられた章にあり、そこでは菩薩が五念門を修めることにより五つの功徳を得ることができることが述べられています。前に天親と曇鸞が引用されたところで五念門と五功徳門が出てきましたが、簡単におさらいしておきますと、礼拝・讃嘆・作願・観察の行を修めることで、それぞれ近門(仏の悟りに近づく)・大会衆門(浄土の仲間に入る)・宅門(止を成就する)・屋門(観を成就する)に入ることができ、最後に回向の行を修めて園林遊戯地門(衆生を教化する)に出るということでした(このすぐ後に出てきますように、前の四つが自利の門で、最後の一つが利他の門です)。
 ここに引用されている文は、菩薩が園林遊戯地門に出て、衆生教化のはたらきを自在にする様子を述べているのですが、そういうことができるのもみな如来の本願力によるのだと言うのです。菩薩がみずからの力で衆生教化しようと思ってそうするのではなく、如来の本願力により、そうせしめられているのであり、それはおのずからのはたらきであるということです。曇鸞はそれを譬えるのに「阿修羅の琴」を持ち出しています。この琴は「鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし」ですが、そのように菩薩も衆生教化しようとしているのではないけれども、教化のはたらきはおのずからなされていくということです。
 なぜおのずから衆生教化のはたらきが起るかといえば、そこには見えない力が作用しているのであり、それが如来の本願力です。阿修羅の琴が自然に音曲を奏でるのも、そこにたとえば風の力がはたらいていて、そよ吹く風が琴線をなぜるとき、その力が強くなったり弱くなったりして、おのずからなる音曲になるのでしょう。このあたりの消息は、聞名と称名の関係と同じです。南無阿弥陀仏の声がおのずから口をついて出る(称名)のは、南無阿弥陀仏の声がすでに届いていて(聞名)、それがわがこころの琴線をふるわせるからに他なりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文1 [『教行信証』精読2(その88)]

        第6回 他力といふは、如来の本願力なり

(1)本文1

 これまでのところで行巻は締めくくられたはずですが、ここであらためて他力について述べられます。

 他力といふは、如来の本願力なり。
 『論』(曇鸞の『浄土論註』)にいはく、「本願力といふは、大菩薩(八地以上の菩薩)、法身(ほっしん)のなかにして、つねに三昧(ざんまい)にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然(おんぎょくじねん)なるがごとし。これを教化地(きょうけじ)の第五の功徳相(五功徳門のうち、最後の衆生を教化する園林遊戯地門のこと)となづく。乃至 

 (現代語訳) 他力といいますのは、阿弥陀仏の本願力のことです。
 『論註』にこうあります。本願力といいますのは、大菩薩が深い悟りと禅定のなかにあって、さまざまな身を現し、さまざまな神通力をもち、さまざまに説法をすることができるのも、みな本願の力によるということです。それは阿修羅の琴はそれを奏するものがいなくても自然と音曲を奏でるようなものです。これは衆生を教化する第五の功徳の相と名づけられます。

 親鸞は先の総括のなかで「この行信に帰命すれば、摂取してすてたまはず。かるがゆへに阿弥陀仏となづけたてまつる。これを他力といふ」と述べていましたが、この他力ということについて、より丁寧に述べる必要を感じたに違いありません。そこであらためて他力とは何かを明らかにするのですが、親鸞のことばとしてはただ一言、「他力といふは、如来の本願力なり」とあるだけで、あとはすべて『論註』に語らせます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文6 [『教行信証』精読2(その87)]

(18)本文6

 大行の総括の最後の部分です。

 『安楽集』にいはく、「十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁(じょうべん)せしめてすなはちやみぬ。またいたはしく頭数(ずしゅ)を記せざれと。またいはく、もし久行(くぎょう)の人の念は、多くこれによるべし。もし始行の人の念は、数を記する、またよし。これまた聖教によるなり」と。已上
 これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。知るべし。

 (現代語訳) 道綽禅師の『安楽集』にこうあります。経に十念相続とありますのは、如来が称名の数として一応上げられたものにすぎません。念仏に親しみ、思いを凝らしてよそ事に紛らわせられないようにすれば、往生の業として成就しますから、煩わしく称名の数を数える必要はありません。またこうも言われます。長く念仏に親しんできた人は、いま述べましたように、わざわざ数を数えることはありませんが、これから念仏を始めようとする人は、数を数えて念仏するのもいいでしょう。これも聖教にあることです。
 これらはみな念仏が真実の行であることを明らかに示しています。まことに念仏は弥陀により選びとられた本願の行であり、世にこえて希有なすぐれた行であり、功徳が円かにそなわった真実の行であり、またどんな煩悩にもさまたげられない大いなる行です。

 称名の数について、念を押すように、『安楽集』から引用され、経に一念とか十念とか書かれていても、その数に囚われることはないと述べられます。こころのなかに本願名号の熾火がある限り、それは折にふれて称名となって口から出るのですから、その数が多いか少ないかなどどうでもいいことです。
 最後にこれまでの総決算として、念仏の行が「選択摂取の本願」、「超世希有の勝行」、「円融真妙の正法」、「至極無碍の大行」の四句にまとめられていますが、「選択摂取の本願」がひっかかるかもしれません。丁寧に言えば、選択摂取の本願の行となるところでしょうが、こうした融通無碍な言い方に妙味があると言うべきでしょう。本願は名号に他ならず、そして名号はそのまま念仏であるというところに他力の他力たる所以があります。

                (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば [『教行信証』精読2(その86)]

(17)大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば

 ここで親鸞は経典の「乃至」とは善導のいう「下至」と同じで、「下一声から、上一形(一生)をつくすまで」の意味であるとして、「一念が多念か」という無益な争いに終止符を打ちます。宇宙からやってくるかすかな信号(たより)を傍受した瞬間(時剋の極促)が信の一念のときであり、歓喜踊躍して乃至一念するのが行の一念ですが(「下一声」です)、それは信心のはじまりに他ならず、それから正定聚として念仏の生活がつづくことになるのです(「上尽一形」です)。
 そして善導の言う「専心」とは「一心」であり、「専念」とは「一行」であるとして、「信の一念」、「行の一念」のもうひとつの意味を明らかにしてくれます。信の一念には「時剋の極促」の意味とは別に、「二心のないこと」という意味があり、それが専心あるいは一心ですが、行の一念にも「偏数の一念」すなわち一声という意味とは別に、「二行のないこと」という意味があり、それが専念あるいは専修念仏です。信にも行にも「もはら」という相があるということです。
 かくして信の一念・行の一念の喜びがもたらす光景を謳いあげます。「大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば」とは、弥陀の光明名号が届いていることに気づいた「時剋の極促」を表しています。これは「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」という『教行信証』の冒頭を思い起こさせます。人生という苦海にうかぶ大船が弥陀の名号であり、苦海を覆う無明の闇を破ってくれるのが弥陀の光明です。
 信の一念・行の一念によって、むこうにある大悲の願船に乗るのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに大悲の願船の上にいることに気づくのです。信の一念・行の一念によって、無明の闇を破るのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに無明の闇が破れていることに気づくのです。信の一念・行の一念によって、すみやかに無量光明土にいたるのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに無量光明土にいることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文5 [『教行信証』精読2(その85)]

(16)本文5

 つづいて、本文4で引用された経文や善導のことばについて注釈が施されます。

 『経』に「乃至」といひ、釈には「下至」といへり。乃下その言(ことば)異なりといへども、その意(こころ)これ一つなり。また乃至とは一多包容のことばなり。「大利」といふは小利に対せるの言なり。「無上」といふは有上に対せる言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。釈に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことをあらはすなり。「専念」といへるはすなはち一行なり。二行なきことをあらはすなり。いま弥勒付属の「一念」は、すなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
 しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す。普賢の徳にしたがふなり。知るべし。

 (現代語訳) 『大経』では乃至一念あるいは乃至十念と言われ、善導の釈では下至一念とか下至十声と言われて、乃至と下至とことばは異なりますが同じことを言っています。乃至とは一と多を合わせ含むことばです。弥勒付属文に一念する人は大利をえ、無上の功徳を具足すると言われていますが、この大利とは小利に対することばで、無上は有上に対します。そして大利無上は本願一乗の真実の利益で、小利有上はその他の八万四千の仮の法門のことです。また善導の釈で専心と言われているのは、一心のことで二心のないことを意味します。一方、専念と言われるのは一行で二行ないことを意味します。弥勒付属文に一念とありますのは一声のことで、一声がすなわち一念であり、一行のことです。一行とは正行であり、正行は正定の業で、正定の業は正念です。正念とは念仏であり、すなわち南無阿弥陀仏です。
 このように大悲の願船に乗らせていただき光に照らされた広海にうかんでみますと、功徳の風が静かに帆をすすめ、禍の波も転じていまや穏やかです。もう無明の闇に脅かされることもなく、すみやかに光明の浄土にいたり、涅槃をえて衆生済度のはたらきをさせていただけます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

点と線 [『教行信証』精読2(その84)]

(15)点と線

 信楽が開発するのはまさに「時剋の極促」です。しかし忘れてならないのは、それは開発の瞬間のことであり、信楽はそれで終わるわけではないということです。
 信楽は線香花火のように、一瞬チカッと光って、それで消えてしまうものではありません。信楽がはじまるのはまさしく「時剋の極促」ですが、信楽はそれからずっと続くのです。親鸞がその「時剋の極促」に注目するのは、それによってこれまでの人生が終わり、新しい人生がはじまるからであり、その断絶が際だっているからです。「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなはち生まる)」です(善導はこれを臨終のこととして説いていますが、親鸞にとっては信楽開発の瞬間のことです)。
 信楽が開発されるのは瞬間ですが、そこから信楽の生活がはじまります。正定聚不退の生活です。われらはどうしても決定的な「点」に目を奪われてしまいがちですが、大事なのはその点につづく「線」です。外見上は決定的な点の前と同じ線がつづいていて、悪人が聖人になるわけでも、穢土が一気に浄土に変貌するわけでもありません。「煩悩を具足せる凡夫」として「三界に流転して火宅をいでず」です。ただしかし、こころの中には信楽の熾火があります。
 それは「信楽開発の時剋の極促」におけるように、燃え立つような火ではありませんが、静かにこころを温めつづけてくれます。それをつい忘れることはあっても(つまらないことに腹を立てているとき、信楽の熾火は忘れられています)、すぐまた本願名号に戻ってきて、そしてそのときおのずから南無阿弥陀仏が口をついて出てくるでしょう。かくして自然と多念になります。たしかに往生は信の一念にさだまりますから、行もまた一念で十分と言ってもいいでしょうが、そうは言っても、信が持続する以上、行もまた多念となる必然性があるのです。
 さてでは多念義はどうか。これにはしかし多言を要しません。多念義は、往生するためには念仏を「しなければならない」と説きますが、念仏は「ねばならない」ものではありません、おのずから口をついて出てくるものです。この一点で多念義の念仏は自力の念仏であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

一念か多念か [『教行信証』精読2(その83)]

(14)一念か多念か

 ここで述べられるのは「称名の徧数」についてです。一見、些末なことに思われますが、実際は信心と念仏についての本質的な問題に関わり、現に、法然門下において一念義と多念義の対立がありました(一念義は幸西と行空ら、多念義は隆寛らに代表されます)。一念義は、往生は信心により決まるのだから、信の一念とそれに伴う行の一念で十分であるとするのに対して、多念義は、一生のあいだ念仏をつづけることが大事であり、そうしてはじめて臨終の来迎に与ることができるとします。この対立は結局のところ信心か念仏かということに行きつくと言えます。
 信心と念仏、信と行の問題はこれまでも取り上げてきましたが(7を参照)、『大経』自身がその関係をこの上なく明らかに説き明かしてくれています。ここに引用されている弥勒付属文に「かの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念せん」とあるのがそれです。「かの仏の名号をきくこと」が信で、「乃至一念せん」が行ですが、両者を歓喜踊躍が繋いでいます。弥陀の名号が聞こえておのずから歓喜踊躍し、そしてその歓喜踊躍からおのずと弥陀の名号を称えることになります。かくして聞名と称名はひとつに繋がります。信と行はもう切り離すことができません。信だけがあって行がないことはなく、行だけで信がないこともありません。
 ここから一念義と多念義の問題点が浮かび上がってきます。まず一念義から見ていきましょう。
 一念義は、往生は信の一念によりさだまるから、行も一念で十分であるとするのですが、これは信をある瞬間において受け取っています。ちょっと先回りになりますが(これは「信巻」の課題です)、信の一念について簡単に見ておきますと、親鸞はこう言います、「それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念といふは、これ信楽開発の時剋の極促をあらはし、広大難思の慶心をあらはす」。このことばは弥陀の名号が聞こえた瞬間(宇宙からの信号を傍受した瞬間)をみごとにとらえています(信の一念にはもうひとつの意味があり、「ふたごころなく本願を信じる」ということですが、いまはおきます)。信は一瞬にして成立するのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文4 [『教行信証』精読2(その82)]

(13)本文4

 これまで、不回向の行について、摂取不捨について、そして信心正因について説かれてきましたが、次は行の一念について述べられます。

 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の徧数(へんじゅ)について選択易行の至極を顕開す。
 ゆゑに『大本』(無量寿経)にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、このひとは大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」と。已上
 光明寺の和尚は「下至一念」といへり。また「一声一念」といへり。また「専心専念」といへり。已上
 智昇師の『集諸経礼懺儀』(礼讃の文を集めたもの。その下巻は善導の『往生礼讃』の全てを収める)の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等(元の『往生礼讃』では「下至十声一声等」となっているが、『集諸経礼懺儀』では「下至十声〈聞〉等」とある)に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心となづく」と。已上

 (現代語訳) 往相回向の行と信について、行の一念と信の一念があります。いま行の一念といいますのは、称名の数について、選ばれた易行の極まりをあらわすものです。
 だからこそ、大経にはこうあります。釈迦が弥勒に言われるには、弥陀の名号を聞くことができ、その喜びがただ一声の称名となることで、その人は大いなる利益をえることができ、この上ない功徳がそなわるのですと。
 善導大士は「下一念に及ぶまで」と言われ、また「一声一念」と言われ、さらには「専心専念」と言われます。
 智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻には善導大士の『往生礼讃』が収められていますが、そこにはこうあります。『観経』の深心とは真実の信心のことで、まず、自分は煩悩具足の凡夫であり、善根は薄くして迷いの世界を流転してそこから出ることができないと信じ、次いで、弥陀の本願は、名号を十声でも聞・称するだけで、かならず往生させていただけると信じて、少しも疑いのこころがないことであり、だからこそ深心とよばれるのですと。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

信心正因とは [『教行信証』精読2(その81)]

(12)信心正因とは

 としますと親鸞がこの両重因縁を説くのはどういう意味があるのでしょう。やはり問題の焦点は信心にあります。
 光明名号に縁って往生が得られるとしますと、そして光明名号は十方世界の隅々まで行きわたり、すべての衆生に注がれているとしますと、もう例外なくみんなが往生を得ることができるはずです。しかし現実はどうか。一方に往生を得て救われている人がいる反面、往生を得ているとは思えない人がいますが、これをどう理解すればいいか。ここに信心の出番があります。第二重の因縁で、光明名号の外縁がそろっていても、そこに信心の内因がなければ往生できないと言われるのはそのことです。
 ただ、信心が往生の因であるというとき、またしても信心が原因となって往生という結果を生みだすとしてしまいますと、同じ過ちを繰り返すことになります。信心と往生は原因・結果という時間的関係ではありません。信心することが、取りも直さず往生することです。繰り返しを厭わず言いますと、信心とは光明名号に気づくことに他なりません。宇宙からの信号(たより)を傍受することです。それだけですが、それが何ものにも代えられない救いとなるのです。逆に、この気づきがありませんと、光明名号なんてどこにもなく、したがって往生という救いもありません。
 これが信心正因ということです。
 信心が往生の因ということを、信心のときに往生がはじまると言い換えても間違いではありませんが(現に、信心がなければ往生という救いはどこにもないのですから)、より厳密に言いますと、信心のときに、すでに往生がはじまっていることに気づくのです。往生はもうとうのむかしにはじまっているのですが、これまでそのことに気づかなかっただけです。信心が光明名号の気づきであるように、往生も「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることの気づきに他なりません。「わたしのいのち」はそのままでとうのむかしから「ほとけのいのち」ですが、これまでそのことに気づかなかった。それに気づくのが往生です。
 信心という気づきは往生という気づきと別ではありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

両重因縁 [『教行信証』精読2(その80)]

(11)両重因縁

 名号と光明により往生させてもらうが、ただそこには信心が必要だと素直に理解すればいいと思うのですが、この段については昔からやかましい議論があり、第一重と第二重の関係をどうとらえるかを巡って争われてきました。ひとつの説は、第一重の因縁による果は信心であるとし、そして第二重の因縁により往生という果が生じるとします。もうひとつの説は、第一重の因縁も第二重の因縁も果は同じく往生であり、第二重の因縁はすでに第一重の因縁のなかに潜在的にあったものを顕在化させたものであると主張します。いずれの説にもそれなりの言い分はありますが、所詮この論争は徒労であると言わざるをえません。
 こうした無益な論争が生まれてくる根っ子は、光明名号と信心と往生の三者をいわゆる原因と結果の関係でとらえようとしているところにあると思われます。光明名号という因縁で信心という果が生じると見るにせよ、あるいは往生という果が生じると見るにせよ、光明名号という因縁と信心あるいは往生という果を時間的な原因・結果としてとらえているのではないでしょうか。まず光明名号という原因があり、それが信心なり往生なりという結果を生みだしているというように、時間のなかで実際に何らかの変化が起こっていると見ているのです。
 しかし仏教の因果概念は元来このような原因・結果という時間的な概念ではありません。釈迦が「これあるに縁りてかれあり」と言うとき、「これ」が原因となって「かれ」という結果を生みだしているということではなく、「これ」は「かれ」とのつながりを離れては存在しないと言っているのです。「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということでもあり、「これ」と「かれ」は時間的に結びついているのではなく、存在として繋がりあっているということです。存在としての縁起の繋がりと時間的な原因・結果の繋がりははっきり区別しなければなりません。
 光明名号と信心と往生とは時間的な原因・結果の関係で繋がっているのではなく、存在論的な縁起の関係で繋がっているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問