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みなもつてそらごと、たはごと [『教行信証』精読2(その119)]

(12)みなもつてそらごと、たはごと

 「凡聖所修の雑修雑善の川水」と「逆謗闡提劫沙無明の海水」が同列に並べられ、いずれも「本願大悲智慧真実劫沙万徳の大宝海水」に転ずるとされていることに引っかかりを感じられるかもしれません。前者は純粋ではないとしても一応は善であるのに対して、後者は紛れもない悪であるのに、それが一緒くたにされ、どちらも功徳の大宝海に転ずるというのは、どうもしっくりこないという思いが残るのではないでしょうか。しかし親鸞としては、われらが善といい悪といって分かったような顔をしていても、「よろづのこと、みなもつてそらごと、たはごと、まことあることなし」(『歎異抄』後序)です。このことばに親鸞らしさがこの上なくはっきり現れています。
 「みなもつてそらごと、たはごと」とは、われらはどんなに善人づらをしようとも、しょせん悪人であるということです。
 しかしどうしてそんなことが言えるのか、世のなかには悪人もいるが善人もいるのではないか、という反問が当然起こってくるでしょう。どうして「みなもつてそらごと、たはごと」などと言えるのか。それはすぐ前のところで出てきました分別知に関わります(9)。われらはこの世を生きるためにものごとを「見る」ことが必要であり、ものごとを見ようと思えば、否応なく自他を分別しなければなりません。自他の分別とは、手っ取り早く言えば「わたし」と「あなた」の分別です。こちらに「わたし」がいて、そちらに「あなた」がいるというこの分別ばかりは、人がどれほど正気を失っても手放すことはありません。自分が何者であるかが分からなくなり、「オレは天皇だ」という人がいても、オレとオマエの区別がつかなくなることはありません。
 そして「わたし」と「あなた」を分別することは、ただ両者を分けるだけではなく、「わたし」を「あなた」より優先することです。ぼくは妻と二人暮らしですが、たとえば食卓に刺身の皿が二つ並べられますと、刺身の量を見てどちらが多いかを目分量しています。われながら浅ましいこと甚だしいですが、「わたし」は「あなた」より優先されることの何より雄弁な証拠です。われらは「わたし」と「あなた」を分別するべく宿命づけられているのですが、そのことのなかにすでに悪の芽が孕まれているのです。

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本文4 [『教行信証』精読2(その118)]

(11)本文4

 一乗海の「一乗」につづいて、次に「海」についての注釈がはじまります。

 海といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修(ぼんしょうしょしゅう)の雑修雑善(ざっしゅぞうぜん)の川水(せんすい)を転じ、逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる、これを海のごときにたとふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷とけて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。以上
 願海は二乗(小乗の聖者、声聞と縁覚)雑善の中下の屍骸(しがい)を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心(ぞうどくざっしん)の屍骸を宿さんや。

 注 逆謗は五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と誹謗正法。闡提は一闡提のことで、快楽を追求するのみで、悟りを求める心のないもの

 (現代語訳) 一乗海というときの海とは、はるかな過去より今日まで、凡夫や聖人が自力で修めてきたさまざまな雑善の川の水が転じ、また逆謗や闡提といった悪人の数限りない無明煩悩の海水が転じて、本願の慈悲と智慧の限りない功徳の大宝海に成ることを、海のようだと譬えられているのです。それは経に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれているのと同じことです。
 本願の海は声聞や縁覚の自力の雑善の屍骸を宿すことはありませんし、ましてや人間や天人の嘘偽りや毒のまじった善の屍骸を宿すことはありません。

 本願は一乗(たったひとつの乗りもの)であるとともに、海のようであるとされますが、ここではどうして海のようであるかが述べられます。それをひと言でいえば、海とは、あらゆるものを、それがどれほど穢れていようとも、どんなに濁っていようとも、いっさい嫌うことなく受け入れ、しかもそれを功徳の水に転じてくれるということです。『高僧和讃』(曇鸞讃)に「尽十方無碍光の、大悲大願の海水に、煩悩の衆流帰しぬれば、智慧のうしほに一味なり」とあるのはそれを詠っています。

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本文3 [『教行信証』精読2(その117)]

(10)本文3

 次に『華厳経』から短文が引かれ、そのあと一乗についてのまとめの一文がきます。

 『華厳経』にのたまはく、「文珠の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏(力は「十力」、無畏は「四無畏」で、いずれも仏の有する徳)もまたしかなり」と。以上
 しかれば、これらの覚悟は、みなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。

 注 「文珠よ、法はつねにしかなり」をこう読む。そして文珠の法、すなわち智慧の法を本願念仏の法と読む。

 (現代語訳) 華厳経にはこうあります。文珠の法はつねにこのようです。法の王はただひとつの法であり、すべての仏たちはこの一道から生死の迷いを出られました。すべての仏の仏身はただひとつの法身です。ひとつの心であり、ひとつの智慧です。十力や四無畏もまた同じです。
 このように真如一実の悟りというものは、みな往生浄土による利益であり、本願によって与えていただける、はかり知れない功徳です。

 先に涅槃経から「真理はただひとつである」ことを示し、ここで華厳経により「仏はみなただひとつの道を通って生死をでられた」ことを確認しています。そしてその「ひとつの真理」、「ひとつの道」とは本願念仏の教えに他ならないと結論しているのです。華厳経は釈迦の最初の説法を、そして涅槃経はその最後の説法を伝えた経典とされますから、この二つの経典を引くことで、釈迦一代の教えはつまるところただひとつ本願念仏の教えにおさまるということを示しているのでしょう。これは涅槃経や華厳経を奉じる人たちからしますと、何という我田引水かということになるでしょうが、親鸞の宗教体験からすれば、釈迦の教えは本願念仏をおいて他にはないのです。

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無明覆へるをもつてのゆゑに [『教行信証』精読2(その116)]

(9)無明覆へるをもつてのゆゑに

 話があまりに抽象的になりました。もっと身近なところ、ぼくらが生きている現場に引きつけて考えてみましょう。ついこの間、信国淳という人のことばを集めた『いのちは誰のものか』という本を読み、身に染みました。その中にこんな一節があります。
 「『まず世界というものがあり、そこへ私どもが生まれてきて、何年か何十年かそこで生活して、やがて死んでいくのだ』と考える。しかも『死んでいくのは自分一人で死んでいくのだ』と考える。そして『自分が死んでも、後には依然として世界が存続し、そこでは自分を除いた他の人びとの生活が相変わらず続けられるのだ』と考える。…私どもは、どうしても自分と世界とを別々に引き離して、それぞれ独立に存在するものと考える。そして世界は、自分の生まれる前から自分に先だって存在し、自分の死んだ後にも存続し、自分はただその中を何年か何十年かかかって通り過ぎるのだ、というふうにしか考えることができない」。
 確かにぼくらはこのように考えています。こんなふうにしか考えることができません。そしてこのように考えることのなかから「存在の不安」が醸し出されてきます。「あゝ、自分はひとり寂しくこの世から去らなければならない。自分が去っても、世界は何ごともなかったかのように続いていくのだ」と。これはしかし、自分がこの世を生きている事実を「見て」います、見ようと構えて見ているのです。そしてそのとき「自分と世界とを別々に引き離して、それぞれ独立に存在するものと考える」のです。これはそう考えるのがいいとか悪いとかの問題ではなく、ぼくらがものを見るときには、そのように見るしかないということです。仏教ではこれを分別と言いますが、これはこれ、あれはあれと分別して、それぞれを独立したものとして見ることしかできないのです。そのような操作を施してはじめて見ることができるのです。
 そのような操作をしているのは他ならぬ見ている自分ですが、でもそのことはブラックボックスの中にあって見ることはできません。ですから、ただひたすら「世界は、自分の生まれる前から自分に先だって存在し、自分の死んだ後にも存続し、自分はただその中を何年か何十年かかかって通り過ぎるのだ」と思い、一人寂しく世界から去っていかなければならないことに底知れぬ不安を感じるだけです。これが無明であり、「無明おほへるをもてのゆへにみることをうることあたはず」ということです。

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気づくと見る [『教行信証』精読2(その115)]

(8)気づくと見る

 何かにふと「気づく」とき、「わたし」は気づきに遅れを取ります。何かに気づいたのちに、ようやく「わたし」が目を覚まして「あゝ、そうだったのか」と思い知るのです。「わたし」が前もって「気づいてやるぞ」と構えて気づくのではありません。そんな構えがあるところに気づきが訪れることはなく、思いもよらないときに気づきはやってきます。しかし、何かを「見る」ときには、まず「わたし」が見てやろうと構えています。「わたし」が見ることに先んじて構えをとっています。その構えがありませんと「見れども見えず」で、何ひとつ見ることができません。
 この「わたしが見ようと構える」というところに問題を解く鍵があります。
 わたしが何かを見ようと構えるとき、こちらにわたしがいて、むこうに対象があり、両者は切り離されています。当たりまえのことで、そのことを意識することはありませんが、何かに気づくことと対比してみますと、それがくっきり浮かび上がります。何かにふと気づいたときは、それとわたしは切り離されていません、融合しています。気づいたあと、ようやくわたしと対象が離れて、「あゝ、そうだったのか」と了解するのです。しかし何かを見てやろうと構えるときは、もう端からわたしがいて、そして向こうに対象があり、両者は最初から別ものです。
 さてそうしますと、わたしが見ようと構えても、どうしても見ることができないものがあります。それがわたしです。わたしはつねに見る側にありますから、そのわたしを見ることはどうあってもできません。わたしを見ることなど造作もない、鏡にうつせばいいじゃないか、写真にとってもいい、と言われるかもしれませんが、そうして見るわたしは「見られたわたし」であって「見るわたし」ではありません。「見るわたし」はどう頑張っても見ることはできません。それは自分の影を踏んでやろうとするようなもので、追っかけるだけ遠ざかるのです。
 これが「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」ということです。

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無明覆へるをもつてのゆゑに [『教行信証』精読2(その114)]

(7)無明覆へるをもつてのゆゑに

 少し前にこう言いました、大悲の願船は、われらがこれから乗り込まなければならないのではなく、もうすでにそのなかに乗っているのだと。ただ、これまでそのことにちっとも気づかなかっただけのことなのだと。それをこう言うこともできます、仏性はこれから手に入れなければならないのではなく、もうすでにわれらのなかに具わっているのだと。ただ、そのことにちっとも気づかなかっただけです。願船も仏性も「ほとけのいのち」のことで、願船は「ほとけのいのち」を外なるものとイメージし、仏性はそれを内なるものとイメージしていますが、いずれにしても「ほとけのいのち」はもうすでに「わたしのいのち」のもとに届いているのです(「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」のもとに届いていることに気づいたとき、そのふたつはふたつにしてひとつですから、外でもあり内でもあることになります)。
 ただ、そのことにちっとも気づかなかった。それが「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」ということですが、さてしかしこれはどういうことでしょう。源信はこう言います、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさへてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなくして、つねにわれをてらしたまへり」と。『涅槃経』には「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」とあり、『往生要集』には「煩悩まなこをさへてみたてまつらず」とありますが、同じことを言っています。大悲はわれらを照らしてくださっているのに、それを見ようとしても無明がさえぎって見ることができないということです。「われまたかの摂取のなかにあれども」と言い、「つねにわれをてらしたまへり」と言うのですから、そのことには気づいているはずですが、しかし見ることはできないのです。
 ここに「気づく」と「見る」のコントラストがあります。「気づく」ことはできるが「見る」ことはできないというのはどういうことか、このあたりの消息をあらためて考えてみましょう。

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一切衆生ことごとく仏性あり [『教行信証』精読2(その113)]

(6)一切衆生ことごとく仏性あり

 『涅槃経』から四つの文が引かれていますが、いずれも「真理はひとつである」ということ、しかし「ひとつの真理が機に応じてさまざまに説かれる」ということが言われています。これらの文の中でとくに注目したいのが、三つ目の文にある「究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗はなづけて仏性とす。この義をもてわれ一切衆生ことごとく仏性ありととくなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明おほへるをもてのゆへにみることをうることあたはず」という箇所です。『涅槃経』のエッセンスは「一切衆生悉有仏性(一切の衆生にことごとく仏性あり)」にあるとされますが、問題は「われらを救う真理はただひとつ」であること、すなわち「ひとつの乗り物(一乗)しかない」ということと、この「われらにはみな仏性あり」ということがどうつながるのかということです。
 それをつなげるのが「一乗はなづけて仏性とす」というさりげない一文です。
 仏性とはどういうことかといいますと、それは仏になりうる可能性、すなわち「ほとけのたね」と言っていいでしょう。衆生はもちろん仏ではありませんが、そのなかに「ほとけのたね」を宿していて、いずれ仏になることができるということです。ぼくお好みの譬えを持ち出しますと、「おたまじゃくしは蛙の子」と言いますように、おたまじゃくしには「蛙のたね」が宿されていて、いつかかならず蛙になることができます。そのように、ぼくら衆生にも「ほとけのたね」が宿されていて、いつの日かかならず仏になるのです。そして「ほとけのたね」にいろいろな種類があるわけではなく、ただひとつでしょう。一切の衆生にひとつの「ほとけのたね」が宿されているのです。
 「一乗はなづけて仏性とす」という文は、「われらを救うのはただひとつの真理である」ということと、「われら一切衆生にはただひとつの仏性がもともと具わっている」ということは同じだと言っているのです。われらはわれらを救うただひとつの真理を求めていますが、実はそれはすでに仏性として一切衆生のなかにあるということです。「一切衆生ことごとく一乗あり」とはそういうことです。われらはただひとつの真理はどこにあるかと外を必死に探し回っているが、あにはからんや、それはすでにわれらの内にあるではないかと言っているのです。

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本文2 [『教行信証』精読2(その112)]

(5)本文2

 一乗の意味を確認するために『涅槃経』から引かれます。

 『涅槃経』にいはく、「善男子、実諦(実は真実、諦は真如。真実の教えのこと)は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つあることなし」と。以上
 またのたまはく、「いかんが菩薩一実(ただひとつの真実で、一仏乗のこと)に信順する。菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしめむと了知するなり。一道はいはく大乗なり。諸仏・菩薩、衆生のためのゆゑに、これを分かちて三つとす。このゆゑに菩薩、不逆に信順す(ただ一つの真実の教えに信順しそむかない)」と。以上
 またのたまはく、「善男子、畢竟(ひっきょう)に二種あり。一には荘厳畢竟(後に出てくるように、六波羅蜜のこと)、二には究竟畢竟(大般涅槃のこと)なり。一には世間畢竟、二には出世間畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗はなづけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」と。以上
 またのたまはく、「いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆゑに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆゑに。いかんが非一・非々一なる、無数の法なるがゆゑなり」と。以上

 (現代語訳) 涅槃経にこうあります。善男子よ、真実の教えをなづけて大乗といい、大乗でないものは真実の教えとは言いません。善男子よ、真実の教えは仏の説かれるところであり、魔の説くものではありません。魔のとくことは仏の説かれることとは異なりますから真実の教えとは言いません。善男子よ、大乗であり仏説である真実の教えはただ一つのまじりけのないもので、二つあることはありません。
 またこうもあります。どうして菩薩はただ一つの真実の教えを信順するのかといいますと、一切の衆生はただ一つの道を行くしかないと菩薩は知っているからであり、その一つの道が大乗です。ただ諸仏や菩薩は衆生のさまざまな機をみて、それを三つに分けて説くだけで、だから菩薩はただ一つの真実の教えを信順しそむかないというのです。
 またこうもあります。善男子よ、真実の教えをつきつめると二種類になり、一つは荘厳畢竟で、もう一つは究竟畢竟であり、あるいはそれを世間畢竟と出世間畢竟ということもできます。荘厳畢竟とは六波羅蜜の行であり、究竟畢竟といいますのは、一切の衆生が得るところの一乗、すなわち涅槃のことです。一乗をなづけて仏性ということもできますから、わたしは一切の衆生にことごとく仏性ありと説くのです。一切の衆生にことごとく一乗があるのです。ただ衆生は煩悩に覆われてそれが見えないだけのことです。
 またこうもあります。どうして真実の教えはただ一つなのかといいますと、一切の衆生はただ一つの道で救われるしかないからです。ではどうして一つではないかといいますと、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三種類の教えがあるからです。ではどうして一つではなく、しかし一つでないこともないのかといいますと、機に応じて無数の教えがあるからです。

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如より来生す [『教行信証』精読2(その111)]

(4)如より来生す

 むこうから思いもかけず到来する、このことを無量寿経は「従如来生(じゅうにょらいしょう、如より来生す)」ということばで表現しています。それは弥陀が「いろもなし、かたちもましまさぬ」真如からかたちをあらわし、われらのもとへ到来することを意味します。「如来(タターガタ)」とは「如(タター)から来生した(アーガタ)」ということです。われらが往生すると言いますが、実を言いますとわれらは「いろもなし、かたちもましまさぬ」ところへ「往生する」ことはできません、「いろもなし、かたちもましまさぬ」真如がわれらのところに「来生する」のです。
 「真如が来生する」ということは、われらの側からいいますと、「真如に気づく」ということです。
 これまでずっと真如(ほとけのいのち)のなかで生かされてきたのに、そのことにまったく気づくことがなかった。ところが、あるときふとした拍子にそのことに気づく。ちょうど大きな船に乗っているのに、それがあまりに大きいものですから、海上を航海していることにちっとも気づかないようなものです。ところがあるときその船が台風による大波か何かでゆっくりとローリングをはじめて、「あれ、地上で生活していると思っていたのに、なんだ、船の上だったのか」と気づく。自分で気づいたのには違いありませんが、実は船から気づかされたのです。そのように真如もまた、真如自身からその存在を気づかされて、「なんだ、自分で生きていると思っていたのに、真如のなかで生かされていたのか」と思い知るのです。これが真如が来生するということです。
 これまで真如という船のなかで生かされてきたことに気づくということは、真如という船はこれしかないと気づくことでもあります。あれこれの船があって、それぞれの人がそれぞれの船に乗っているのではなく、この船にすべての人が乗り込み、倶会一処していると気づくことです。これが「大乗は二乗三乗あることなし。二乗三乗は一乗にいらしめんとなり」ということです。

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真実と方便 [『教行信証』精読2(その110)]

(3)真実と方便

 さて、「二乗三乗は一乗に入らしめんとなり」とあります。釈迦の教えには八万四千の法門があると言われ、声聞のための教え、縁覚のための教え(この二つが小乗の教えです)、菩薩のための教え(大乗聖道門の教えです)とさまざまありますが、みな誓願一仏乗に入らせるための方便にすぎないというのです。これはしかし物議をかもしてしかるべき議論というべきでしょう。「一乗をうるは、阿耨多羅三藐三菩提をうるなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり」としますと、釈迦の法門はみな阿耨多羅三藐三菩提をめざし、涅槃界を求めているのではないでしょうか。どうして本願念仏の教えだけが真実であり、それ以外はそこに入らせるための方便と言えるのでしょう。
 この問いに答えるにはまたもや「自力と他力」に戻らなければなりません。曇鸞は『論註』の最後尾においてこう言っていました、「問ていはく、なんの因縁ありてか速得成就阿耨多羅三藐三菩提(速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得)をいへるや。答へていはく、論に五門の行を修して、もて自利利他成就したまへるがゆゑにといへり。しかるに覈(まこと)にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり」と。いかにして速やかに阿耨多羅三藐三菩提をえられるか。『浄土論』には五念門を修めて自利と利他の行を成就することによりえられると書いてあるように思われる。しかし、よくよく「その本を求むれば」、弥陀の本願力によりえることができると天親は言っているのだ。これが曇鸞の結論でした。一見したところでは自力のようだが、実は他力によってこそえられるのだと。
 二乗の教えも、大乗聖道門の教えも、自力でさまざまな修行をつむことで阿耨多羅三藐三菩提にいたることができると説いているが、実を言えば、他力によりはじめてそこにいたることができるのだということです。阿耨多羅三藐三菩提とは究竟法身、すなわち真如であり、それは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)と言うしかないものです。「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところへこちらから(これが自力でということです)尋ねていくことはできず、ただむこうから(これが他力です)思いもかけず到来するだけです。

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