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名号を聞く [『教行信証』精読2(その150)]

(11)名号を聞く

 次は名号です。法蔵の誓願は名号というかたちでわれらのもとに届くということです。名号とは声に他なりません。南無阿弥陀仏は声として存在します、まずはむこうから聞こえてくる声として。そしてわれらが口にする声として。「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜(あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜す」、これは第18願の成就文の一節ですが、ここにすべてが言い尽されています。「聞其名号」とは、南無阿弥陀仏が声としてきこえてくることを表しています。そして「信心歓喜」は、その南無阿弥陀仏の声がこころに届いて、こころが澄み渡り、その底に法蔵の誓願があると気づくということです。
 南無阿弥陀仏がむこうから聞こえてくるということは行巻でこれまで明らかにされてきました。そのハイライトはあの六字釈でしょう。「南無の言は帰命なり。…帰命は本願招喚の勅命なり」。南無阿弥陀仏とは「わたしに帰命しなさい」という弥陀の勅命であるということ、それがあるからこそ「あなたに帰命します」という応答があるのだということ、ここに行巻の核心があります。問題はつぎの信心歓喜です。これを明らかにするのは次の信巻の課題ですが、先回りをしてそのポイントを押さえておきましょう。
 信心歓喜ということばはサンスクリットの「プラサーダ」で、もとの意味は「こころが浄らかに澄むこと」で、その意を取って「浄信」と訳されることもあります。これの示唆することは大きいと言わなければなりません。といいますのは、信心ということばには、ともするとこころの中に何かが新しくつけ加わるというイメージが伴うからです。ところがその原義を考えますと、むしろその逆で、こころの濁りがきれいに取り払われ、清らかに澄んだ状態になることを指しているのです。
 南無阿弥陀仏の声が聞こえたとき何が起こるかといいますと、濁っていたこころがさあーっと澄んで、その底にこれまでまったく気づかなかったものが見えてきます。法蔵の誓願です。先に、一筋の光は真っ暗だったこころを一瞬にして明るくし、そこに法蔵の誓願があることを思い出させてくれると言いましたが、それとまったく同じように、南無阿弥陀仏の声は濁ったこころを清らかにし、そこに法蔵の誓願が昔からずっとあることに気づかせてくれるのです。

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ひかりに遇う [『教行信証』精読2(その149)]

(10)ひかりに遇う

 まず光明です。われらはそれぞれに切実な願いをいだき、どうにかしてそれを実現しようと日々躍起になっているのですが、あるとき一筋の光が差しこみ、その光から「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけがやってきます。そうしてすっかり忘れ果てていたことがあるのを想い出す。これが光に遇うという経験です。浄土教において光は智慧をあらわしますが、光に遇うというのは何か特別な智慧が新たに与えられるということではありません。心の底にすっかり忘れられたままになっていたことを、あるときはっと思い出させてもらうということです。思い出すのは、言うまでもありません、法蔵の誓願です。
 これまでずっと心の底にあったのに、それをすっかり忘れていたのは、心が闇に閉ざされていたからです。
 蔵の中に大事な宝物がしまわれてあるのに、それに気づかずじまいだったのは、蔵の中が真っ暗だからです。あるとき蔵の中に光が差しこみ、そこにとんでもない宝物があることに気づく。頭に浮ぶのは曇鸞の卓抜な譬えです。「たとへば千歳の闇室に光もししばらく至らばすなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや」。千年の間ずっと闇の中にあった部屋も、光がさっと差しこむと、一瞬にして明るくなるではないかというのです。千年も闇の中にあったから、明るくなるのにまた千年かかる、というわけではないということです。
 そのように、ずっと忘れたままであったことも、思い出すのは一瞬です。そして思い出してしまえば、それはもうずっと昔からあったことが明らかになります。法蔵の誓願はずっと昔からわれらのこころの奥底にあったのです。ところがそのまま忘れられてしまい、忘れたことすら忘れてしまいました。それがひとすじの光で明るみに出される。これが光に遇うということで、そのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるがままで「ほとけのいのち」であることに気づくのです。
 個々の「わたしのいのち」はそれぞれの得手勝手な願いを実現しようと四苦八苦しているのですが、その「わたしのいのち」の奥底に「ほとけのいのち」の願いがあることに気づくのです。

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本文4 [『教行信証』精読2(その148)]

(9)本文4

 次は弥陀の光明と名号について詠われます。

 あまねく無量・無辺光、無礙・無対・光炎王、
 清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
 超日月光を放ちて塵刹(塵は無数ということ、刹は国土で、限りなく多い国)を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
 本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。
 等覚(正覚に等しいという意味で、菩薩の最高位を指す。親鸞は正定聚と同義でつかう)を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。
 (普放無量無辺光 無礙無対光炎王 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就)

 (現代語訳) 弥陀の光明は無量光・無辺光、無礙光・無対光・炎王光、清浄光・歓喜光・智慧光、不断光・難思光・無称光、超日月光としてあまねく世界中を照らし、一切の衆生はみなこの光に照らされます。
 また本願の名号は衆生が必ず往生できる行であり、第18願の至心信楽の願が往生の正因です。信をえて等覚となり、大涅槃を証するのは第11願の必至滅度の願が成就したことによります。

 前の段で、法蔵菩薩が「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発」したことが述べられた後、ここで、その誓願が成就して法蔵が阿弥陀仏となり、光明と名号とにより衆生を摂取することが詠われます。衆生が誓願に気づくために、光明と名号という二つが必要であるということです。前半で、「一切の群生、光照を蒙る」と、われらは光明により本願と遇うことができると述べられ、次いで「本願の名号は正定の業なり」と、名号によって本願に気づくことができると詠われます。

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法蔵とは誰? [『教行信証』精読2(その147)]

(8)法蔵とは誰?

 法蔵とは誰のことでしょう。無量寿経はこう説いています、「時に国王あり、仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予(えつよ、喜び)を懐き、すなはち無上正真道(菩提)の意(こころ)を発(おこ)し、国を棄て、王を捐(す)てて、行きて沙門(出家修行者)となり、号して法蔵といへり」と。「国を棄て、王を捐てて」というところから明らかに釈迦がモデルとなっていることが知られますが、ともあれ法蔵とは一人の出家修行者であり、われらと同じ人間です。その人間が「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」という誓願を立てたのです。一切の衆生をもれなく救うことがなければ、わたしも救われることがない、と。そしてその誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となった。
 法蔵の誓願が成就して、法蔵という「わたしのいのち」が弥陀という「ほとけのいのち」となった―これが浄土の教えの核心ですが、そうであるからこそ弥陀の本願がわれらのもとに届き、われらがそれに応答することができるのです。もし弥陀がもとから「ほとけのいのち」であるとしますと、その本願がどれほど有り難いものであるとしても、われらとは無縁のままでしょう。そして「若不生者、不取正覚」が法蔵の誓願であるからこそ、それにもよおされて、われらのこころの底にある古い記憶をよみがえらせるのです、「ああ、そうだ、すっかり忘れていたが、それがわれらのほんとうの願いだ」と。
 プールヴァ・プラニダーナにもう一度戻りますと、これは弥陀が弥陀となる前の、本の願いということで本願とよばれるのですが、これをわれら自身の本の、ほんとうの願いと受け取ることができないでしょうか。われらはそれぞれ「わたしのいのち」として、さまざまな願いをもって生きています。「人から認められたい」とか「健康で長生きしたい」とか、それぞれ自分勝手な願いにしがみついていますが、すっかり忘れているひとつの願いがあります。それが法蔵の「若不生者、不取正覚」という願いです。そんな願いが自分の中にあることをまったく忘却してしまっているのですが、それがあるときふと蘇ります、「ああ、これがわれらのほんとうの願いだ」と。
 われらの願いの底には法蔵の願いがあるのです。

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法蔵の誓願 [『教行信証』精読2(その146)]

(7)法蔵の誓願

 阿弥陀仏はもとから阿弥陀仏ではなく、法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏となったということ、そして本願も、もとから弥陀の本願としてあるのではなく、法蔵の立てた誓願が弥陀の本願であるということ、ここには深い意味が隠されていると思います。無量寿経は阿弥陀仏を久遠の仏として説くこともできたはずですし、本願もその久遠の仏の願として説くこともできたはずなのに、そのようにはせず、法蔵菩薩の立てた誓願が成就することにより阿弥陀仏の本願となったと説くのはなぜか。試しに弥陀はもとから弥陀であり、その本願ももとからあったと説かれていたらどうかを考えてみましょう。
 法蔵が弥陀になったのではなく、弥陀はもとから弥陀であるとしても、一切衆生を救わずばおかないという願いをもった「無量のいのち」が存在するということは何も変わらないとも言えますが、ただそうだとしますと、「無量のいのち」と「わたしのいのち」の接点が見いだせなくなります。「無量のいのち」は「わたしのいのち」からあまりに遠く離れてしまうと言えばいいでしょうか。先ほど、「無量のいのち」から「わたしに帰命しなさい」という招喚の勅命があり、それにすかさず「あなたに帰命します」と応答する、と言いましたが、どうしてこういう呼応がありうるのか分からなくなるのです。
 先ほど言ったことで、もう一つ是非とも思い起こしておきたいのは、「無量のいのち」からやってくる招喚の勅命は「何か大事なこと忘れてはいないか」という問いかけでもあるということです。そしてその問いかけにもよおされて、「あゝ、言われてみると大事なことをすっかり忘れていた」と思い出すのですが、そんなことができるのはわたしの中にその記憶がもともとあったということです。その記憶と言いますのが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということですが、もし弥陀がもとから弥陀であるとしますと、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち(弥陀のいのち)」であるなどありえないことです。
 しかし、弥陀がもとは法蔵であったとしますと話は変わってきます。

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本文3 [『教行信証』精読2(その145)]

(6)本文3

 法蔵菩薩が大いなる誓願を立てる段に入ります。

 法蔵菩薩の因位(いんに)の時、世自在王仏の所(みもと)にましまして、
 諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見(とけん、見る)して、
 無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
 五劫これを思惟して摂受(しょうじゅ)す。重ねて誓ふらくは名声十方にきこえんと。
 (法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方)

 (現代語訳) 阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であったとき、世自在王仏の導きのもと、十方諸仏の浄土の成り立ち、その国土や人びとの善悪のありさまを見せていただき、この上なくすぐれた願を立て、かつてない大弘誓を起こされました。そして五劫ものあいだ思惟を重ねて、これを選びとられました。重ねて誓われたのは、わが名号が十方世界に聞こえるようにということでした。

 浄土の教えは「わたしは阿弥陀仏(無量のいのち)に帰命します」と表明することに尽きると言いましたが、さて阿弥陀仏とは誰のことか、親鸞は無量寿経の所説にしたがい、そのポイントを手短におさえていきますが、無量寿経によりますと阿弥陀仏にも因位のとき、すなわち菩薩として修行していたときがあったことが分かります。いうまでもなく法蔵菩薩ですが、教行信証において法蔵菩薩が登場するのはこれが最初です。
 教巻において、真実の教えは無量寿経に説かれていること、そしてその大意は「弥陀ちかひを超発し」たことにあり、したがって「如来の本願をとくを経の宗致とする」ことは述べられていました。そして行巻において、本願の中の第17の願に念仏の根拠があり、南無阿弥陀仏を称えることで往生できることが縷々述べられてきたのですが、その本願をたてたのは法蔵菩薩であることはここにきてはじめて明かされます。阿弥陀仏が誓いを発したとは言うものの、実は阿弥陀仏がまだ阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩のときに誓願を立てたのです。
 本願とはプールヴァ・プラニダーナ、つまり前の(プールヴァ)願(プラニダーナ)であり、弥陀が弥陀になる前に立てた願ということで、本の願、本願と言われるのです。

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何か忘れてはいないか [『教行信証』精読2(その144)]

(5)何か忘れてはいないか

 ところがあるとき「何か大事なことを忘れてはいないか」という声が聞こえてきます。これが「ほとけのいのち」からの呼びかけですが、これを促しとも、催しとも言うことができます。催しと言いますのは、『歎異抄』第6章に「ひとへに弥陀の御もよほしにあづかつて念仏まふしさふらふ人を、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」とある、あの「もよほし」のことです。「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけに催されて、もうすっかり忘れていたことが、忘れていること自体を忘れていたことがふっと蘇ってくるのです。
 「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であり、他の「わたしのいのち」と競合しながら、自分の思いを遂げるしかないと思っていたのですが、「わたしのいのち」も他の「わたしのいのち」も「ほとけのいのち」としてひとつではないかと思い起こすのです。「ほとけのいのち」のことを思い起こすということは、もともと「わたしのいのち」の中に記憶としてあったということですが、記憶としてあること自体を忘れていたのです。それをふと思い出すのは、不思議な催しがあったからですが、その催しは他ならぬ「ほとけのいのち」からやってきます。「ほとけのいのち」を忘れてはいないかと「ほとけのいのち」から問いかけられるのです。
 これはしかしどういうことでしょう。
 「わたしのいのち」はもともと「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということです。ところが「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のことをすっかり忘れ果て、「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」でしかないと思い込んでいます。「わたしのいのち」のことをわたしが勝手に決めて何が悪いと思い込んでいる。そこに「ほとけのいのち」から「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけがやってくるのです。その問いかけに「あゝ、そうだった」と自分の根源を思い起こすのです。「わたしのいのち」の底には「ほとけのいのち」があることを思い起こすのです。

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無量のいのち [『教行信証』精読2(その143)]

(4)無量のいのち

 「わたしは無量のいのちに帰命します」という表明は、いま言いましたように、他の誰でもないわたしの表明ですが、しかしわたしが勝手に発信しているのではなく、むこうからやってきた信号を受信し、それに対して返信しているだけです。どこからやってきたのかといいますと、もちろん「無量のいのち」からで、「無量のいのち」から「わたしに帰命しなさい」という呼びかけがやってきて、それに対してすかさず「あなたに帰命します」と返信しているのです。
 このように言いますと、「無量のいのち」はわたしのいのちとは別にどこかにあるかのように思われるかもしれませんが、そう受け取りますと「わたしは無量のいのちに帰命します」という表明のもっとも大事なところが吹き飛んでしまいます。そうではなく、「無量のいのち」(これをこれまで「ほとけのいのち」とよんできました)と「わたしのいのち」は別のいのちではなく、同じひとつのいのちです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。
 さてしかしこのこと自体「ほとけのいのち」からの呼びかけがあってはじめて気づくことで、それまでは「わたしのいのち」はひたすら「わたしのいのち」であり、それ以外の何ものでもありません。
 最近よく話題になることですが、高速道路を走行中のドライバーがほんのちょっとしたことで他の車に対して向かっ腹を立て、追っかけまわしたり、あおり運転したりと嫌がらせをして、この間はそれがとんでもない事故につながってしまいました。どうしてそこまで腹を立てるのかと思う反面、自分にも程度の差はあれ似たようなこころの動きがあることを否定できません。たとえばスーパーの駐車場などで、自分勝手な動きをする車に邪魔をされたりしますと、自分でも驚くほど腹が立ちます。車というのは「わたしのいのち」を何倍にも拡張してみせる力がありますので、前に進もうとしている「わたしのいのち」が誰かに遮られたと感じたら、そのことに無性に腹が立つのでしょう。
 そんなとき「わたしのいのち」はひたすら「わたしのいのち」で、それ以外の何ものでもありません。「わたしのいのち」が他の「わたしのいのち」と角つきあわせ、思うままに生きようとせめぎ合うのです。

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本文2 [『教行信証』精読2(その142)]

(3)本文2

 さて正信偈に入りまして、その冒頭の2句です。

 無量壽如来(限りないいのちの如来、アミターユス)に帰命し、
 不可思議光(不思議なひかりの如来、アミターバ)に南無したてまつる。
 (帰命無量寿如来 南無不可思議光)。

 (現代語訳) わたしは無量寿如来に帰依し、不可思議光仏に帰命します。

 この2句は天親の願生偈冒頭の「世尊、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」にあたるもので、帰敬偈とよばれますが、これから述べられる正信偈のすべてがここに凝縮されていると言えます。
 言うまでもないことながら、帰命無量寿如来も南無不可思議光も南無阿弥陀仏ということです。阿弥陀仏とはアミターユス、アミターバがもとで、まずアミタとはa-mitaで、aは無、mitaは量を意味し、したがって無量ということです。そしてアミターユスとはアミタ・アーユスすなわち「無量のいのち」、アミターバとはアミタ・アーバすなわち「無量のひかり」を意味します。また南無はナモ(namo)の音訳で、帰命する(命に帰す、勅命にしたがう)という意味です(インドではいまもナマステが「こんにちは」などの挨拶のことばとして使われています)。ですから南無阿弥陀仏とは帰命無量寿如来であり、また南無不可思議光ということです。
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」の2句に正信偈のすべてが凝縮されていると言いましたが、としますと正信偈は、ひいては浄土の教えそのものが南無阿弥陀仏の六字に収まるということです。南無阿弥陀仏はたんに「阿弥陀仏に帰命すること」を意味するのではありません。南無とは一人称単数を主語とする動詞ですから、このわたしが阿弥陀仏に帰命すると宣言することばです。南無阿弥陀仏はわたしの信心の表明です。「わたしは無量のいのちである阿弥陀仏に帰命します」というこの表明に浄土の教えのすべてがつまっているということ、ここにじっと思いを潜めてみましょう。

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正信偈の趣旨 [『教行信証』精読2(その141)]

(2)正信偈の趣旨

 これまでのところで行巻はすべて終わったかと思いきや、親鸞はその後に正信念仏偈をおきます。正信念仏偈とは「正信し、念仏する詩」ということであり、また「念仏を正信する詩」と取ることもできるでしょうが、ともかく本願の行信を讃嘆する詩ということです。
 どうしてこれをここにおくかをこの序文は述べるのですが、まず言われるのは本願の行信(行と信は弥陀からの賜りものとしてひとつです)に真実と方便があるということで、このことはこれまではっきりと言及されることはありませんでした。ここにきてはじめてこの区別が登場するのですが、しかしどう違うかが論じられるわけではありません。ただ真実の行信について、「その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の願なり」と述べられ、そしてその機については「一切善悪大小凡愚」であるとされ、その往生は「難思議往生」で、さらに仏土は「報仏・報土」であるとされます。これらはみな方便の行信との対比で述べられているのですが、それについて論じるのは最終巻である化身土巻の課題となります。
 さて親鸞としては、真実の行信を賜った恩を知り、その徳に報じて偈をつくろうというわけですが、それに際して曇鸞の『論註』を参照します。ここに引用されたのは、『浄土論』冒頭に「世尊、われ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」とあるのを注釈する文です。天親は本願の行信を賜ったことの「恩を知りて徳を報」じようとして、「理よろしくまづ啓すべし」と考え、釈迦如来に対して「世尊、われ一心に」と述べているのだと曇鸞は解しました。また本願一乗海を讃えるという大事業をなしとげるには、釈迦如来の力に支えられることなくしてはできることではありませんから、書の冒頭に「世尊よ」と呼びかけているというのです。
 そのようにわたし親鸞も「仏恩の深遠なる」を思い、「大聖の真言に帰し、大祖の解釈を閲して」、これから誓願不可思議一実真如海を讃嘆する正信念仏偈を謳いあげていこうと思うというわけです。親鸞としては天親の願生偈を念頭において、正信偈をつくっていることがよく伝わってきます。

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