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因と果 [『教行信証』精読2(その211)]

(21)因と果

 問題は「み名を称すれば、かならず生ずることを得」ということばをどう理解するかということです。
 どうもこうも、この文をいろいろに解する余地はまったくないじゃないか、といわれるかもしれませんが、なんの、「ば」という接続助詞はなかなかの曲者なのです。金子大栄氏がどこかで出している例ですが、「人に親切をすれば、幸せになる」という文で考えてみましょう。これは、人に親切にすることが因となって、幸せになるという果を招くという意味であり、それ以外に取りようがありません。しかしこの因と果ということば自体に複数の意味がはらまれているのです。
 普通は因と果の間に時間の経過があると考えられます。まず因があり、しかる後に果があると。しかし、因と果は同時であると考えられる場合もあるのです。前者を異時因果、後者を同時因果と名づけましょう。
 「人に親切をすれば、幸せになる」の場合、あるとき人に親切をしたことが因となって、その後に幸せになるという果が得られるとするのが異時因果で、これが普通の解釈でしょう。「情けは人のためならず」ということわざはその意味です(これは、人に情けをかけることは、その人のためにならないという意味ではなく、人に情けをかけるのは、実は自分が幸せになるためだということです、念のため)。しかし「人に親切をすれば、幸せになる」は、人に親切をするという因と幸せになるという果は同時に成り立っていると受けとることもでき、この場合が同時因果です。人に親切をすることが、取りも直さず自分の幸せであるという意味です。
 人に親切をすれば後に幸せが得られるとするところからは、幸せになろうと思ったら人に親切をしなければならないという教訓が出てきます。しかし、人に親切にすること自体が自分の幸せだとするところには、そのような打算が入り込む余地はありません。幸せになろうと思って親切をするのではなく、気がついたときにはもう親切をしていて、そしてそのときすでに幸せをえているのです。

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本文8 [『教行信証』精読2(その210)]

(20)本文8

 源空讃の後半です。

 生死輪転1のいへにかへりきたることは、決するに疑情をもて所止とす。すみやかに寂静無為2のみやこにいることは、かならず信心をもて能入とすといへり。(還来生死輪転家、決以疑情為所止、速入寂静無為楽、必以信心為能入)

 注1 生死輪廻を繰り返すこと。
 注2 しずかな悟りの境地。

 (現代語訳) いつまでも生死の絆が切れず輪廻を繰り返すのは、ひとえに本願に対する疑いが晴れないからです。すみやかにしずかな悟りの境地に入れるのは、ただ本願を信ずることによるのです、と法然上人は言われました。

 この偈文のもとになっているのは、選択集、第八にある「生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」という文です。
 すぐ上にありましたように、「み名を称すれば、かならず生ずることを得」るのですが、ただやみくもに「み名を称すれば」救われるわけではありません、「み名を称すれば、かならず生ずることを得」ると信ずることが必要です。それはそうだ、み名を称えるのは、そうすることでかならず往生を得ることができると信じるからであって、そう信じない人は称えないだろうよ、と言われるかもしれません。だから、み名を称えている人は、みんな信じているに違いないと。
 そうでしょうか。親鸞はこう言います、「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)と。ほんとうの信心があれば、かならずみ名を称えるが、み名を称えているからといって、かならずしも信心があるとは限らないというのです。どうやら、「念仏するからには信心があるに違いない」というときの信心と、「念仏しているからといってかならずしも信心があるとは限らない」というときの信心は別もののようです。

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選択本願悪世にひろむ [『教行信証』精読2(その209)]

(19)選択本願悪世にひろむ

 ではどのようにして善悪の凡夫人が例外なく救われるのか。その答えが「選択本願悪世にひろむ」です。選択本願(せんじゃくほんがん、浄土宗ではせんちゃくほんがん)という言い方は法然独特で、そもそも「選択」という発想に法然的なものが潜んでいると言えそうです。「選択とは、すなはちこれ取捨の義なり」(『選択本願念仏集』)と彼自身が言っていますように、「これを取り、あれを捨てる」ということです。有名な「三選の文」にその法然的な「選択」がはっきり出ています。
 「それ速やかに生死を離れむとおもはば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門をさしおいて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむとおもはば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を修せむとおもはば、正助二業の中に、なほし助業をかたはらにして、選じてまさに正定をもっぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」(『選択集』、第十六)。
 選択本願といいますのは、法蔵菩薩が「二百一十億の諸仏の浄土の中において、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜(しゅ)を捨て国土の好を取る」(同、第三)という意味で、二百一十億もの諸仏の浄土から、「これを取り、あれを捨てる」して、これ以上はないと思われる浄土を選択したということです。それがあの四十八願であり、とりわけ第十八願で、それをひと言にすれば「み名を称すれば、かならず生ずることを得」ということです。ただ念仏ひとつを選んで本願としたもうたのであり、だから、ただ念仏ひとつで救われるのです。善悪の凡夫人を憐愍すればこそです。
 本願のことを、そしてとくに第十八願のことを弘願といいますが、それは「善悪の凡夫人を弘く救う願い」という意味であるとともに、「善悪の凡夫人におのずから弘まる願い」という意味もあるように思われます。法然が本願を弘めたには違いありませんが、それは本願自体におのずから弘まる力があるからであり、本願が法然をして弘めさせているのです。それは法然が善悪の凡夫人を憐愍しているに違いありませんが、弥陀のはからいでそうせしめられているのと同然です。

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善悪の凡夫人を憐愍せしむ [『教行信証』精読2(その208)]

(18)善悪の凡夫人を憐愍せしむ

 この文は自余の諸行と念仏を対比するものですが、もっと広く、自余の仏教と念仏の仏教を比較するものと受け取ることができます。自余の仏教がどれほど素晴らしいものであっても、そこに入れない人がいる限り、それは本物の仏教とは言えないということです。入らない人がいるのは如何ともしがたいですが、入ろうとしても入れない人がいる仏教は、それがどんなに優れたものであろうと、もうそれだけで仏教とは言えない、という断固とした宣言です。造像起塔の者、智慧高才の者、多聞多見の者、持戒持律の者に限って入門を許す仏教とはいったい何かという手厳しい反問です。そもそも仏とはどんないのちも分け隔てなく包みこむ大いなるいのちではありませんか。
 そうした仏教に対する法然のスタンスは「善悪の凡夫人を憐愍せしむ」(この「せしむ」という表現は「したまう」という尊敬の意味です)ということばに表されています。善人であろうが悪人であろうが、一様に凡夫人である、そんなみんなとともにわれもまた救われていこうというスタンスです。かくして「真宗の教証を片州に興す」という一句の意味も明らかになります。
 法然より前に源信が往生要集を著し、念仏の教えをあらゆる角度から説いているのに、どうして法然が念仏を興したと言えるのか。いや、源信よりさらに前に、天台宗第3代座主となる円仁が中国に渡り、五台山で法照流の念仏(五会念仏とよばれます)を学んで比叡山に持ち帰って以来、山の念仏は脈々と受け継がれてきたはずなのに、どうして法然が念仏を興したことになるのか。
 答えは明らかでしょう。法然は山を下りたからです。源信は念仏の教えを説き尽くしたとはいえ、山を下りて世の善悪の凡夫人にそれを広めようとはしませんでしたが、法然は山を下りた。山を下りるというのは、自分もまた善悪の凡夫人の一人であるということの意思表示です。自分も善悪の凡夫人の一人として、世の有象無象の凡夫人とともに救われていこうという意思表示です。

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本文7 [『教行信証』精読2(その207)]

(17)本文7

 いよいよ正信偈最後の源空讃です。まずは前半の4句。

 本師源空は仏教をあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証を片州1に興す。選択本願悪世にひろむ。(本師源空明仏教、憐愍善悪凡夫人、真宗教証興片州、選択本願弘悪世)

 注1 かけらのような国ということで、日本のこと。

 (現代語訳) わが師、源空聖人は仏の教えとは何かを明らかにして、善悪の凡夫人を哀れみ、浄土真実の教えをこの日本の国に興してくださいました。そして選択本願を五濁悪世に弘めてくださったのです。

 「仏教を明らかにする」という言い回しに惹かれます。一口で仏教と言っても、釈迦自身の原始仏教からはじまり、細かいグループに分かれて煩瑣な論争を繰り返した部派仏教(いわゆる小乗仏教)、そしてそうしたありように不満をもった人々の中からあらわれてきた大乗仏教というように複雑な経緯を経て、その結果として八万四千といわれる法門が開かれてきたわけで、いったいどこに仏教があるのか、もう途方に暮れてしまうようなありさまであると言わなければなりません。そんななかでわが源空聖人は「仏教とは念仏である」と明らかにしてくれたというのです。
 それにしても、どうしてこうも大胆なことが言えるのでしょう。この問いに対する最も適切な答えは選択集の次のことばです。「もしそれ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに准じてまさに知るべし」。これは選択集の中でいちばん法然らしいことばではないでしょうか。

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仏智の扉があく [『教行信証』精読2(その206)]

(16)仏智の扉があく

 こんな譬えはどうでしょう。ある変わった人がいて、1たす1は3であると思い込んでいるとしましょう。1たす2は4であり、2たす3は6である、という具合になっているのです。その人に1たす1は2であり、1たす2は3であり、2たす3は5であると教えても、「いや、それは間違いだ」と主張して譲りません。突拍子もない話ですが、その人は1たす1は3である世界に生きていて、それ以外の世界を知らないのです。いや、知りようがありません、その人には1たす1は3なのですから。その人にとって1たす1は2であるというのはただの間違いにすぎません。
 さてでは、その人が1たす1は3である世界とは別に1たす1は2である世界が存在することに気づくことはないのでしょうか。それがあるのです。1たす1は3の世界から1たす1は2の世界に出ることはできませんが(それは自分を根底から否定することですが、自分で自分を全否定することはできません)、逆に、1たす1は2の世界の方がふいに1たす1は3の世界に姿をあらわすことがあるのです。自分からそちらに出ることはかないませんが、向こうから思いがけずやってくることがあり、そのときはじめて1たす1は2の世界があることに気づくのです。
 そのように、人知の世界から仏智の世界へ出ることはどうあってもできませんが、仏智の世界がとつぜん人知の世界に姿をあらわすことがあり、そうしてはじめて仏智というものに気づくのです。人知と仏智との間には扉があり、それを人知の側から開けることはできません。ところがその扉が仏智の側から開くことがあるのです。そのときこれまでまったく切り離されていた仏智と人知がひとつにつながることになります。その喜びが「煩悩まなこをさえてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふ」ということばとなってほとばしり出るのです。
 仏智に気づかせてくれるのも仏智のはたらきです。このことを指して「賜りたる信心」というのです。

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本文6 [『教行信証』精読2(その205)]

(15)本文6

 源信讃の後半4句です。

 極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふといへり(極重悪人唯称仏、我亦在彼摂取中、煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我)。

 (現代語訳) どうしようもない悪人であるわれらはただ仏をたのみ、仏のみなを称するしかありません。わたし源信もまたまぎれもなく弥陀の摂取のなかにあるにもかかわらず、煩悩がわがまなこを遮ってそれを目の当たりにすることはできません。しかし弥陀の大悲はいつもたがうことなくわたしを照らしまもってくださっています、と源信和尚は言われます。

 最後の3句は実に印象的で、親鸞もこのことばをいろいろなところで取り上げています。この3句の間の関係に特徴があり、第1句と第2句が「あれども」と逆接で繋げられ、さらに第2句と第3句も「いへども」と逆接の関係になっています。つまり、第1句が第2句で否定され、そしてまた第2句が第3句で否定されますから、二重否定によって最初に戻るという構造になっているのです。「われらは弥陀の本願に摂取されている」、but「それを知ることはできない」、but「弥陀の大悲はわれらを照らしまもっている」という具合で、まず摂取不捨を事実として上げ、しかしそれをわれらはどのようにして知るのかと疑問を呈し、さらに、いや、それは紛れもない事実だと結論するのです。
 2句目の疑問が大事です。これまでの流れで言いますと、われらは人知の世界のなかにどっぷりつかっていて、その世界しか知ることができません。われらにとって人知の世界が唯一の世界ですから、その外に仏智の世界があるなどと知りようがありません。ですから、誰かが仏智の世界のことを話しても(「われまたかの摂取のなかにあり」というように)、そんな世界があるということをどのようにして知ることができるのかという疑問をもつのはきわめて自然です。まだ見ぬ世界があるだろうと想像することはできます。これまで見る機会がなかっただけで、見ようと思えば見ることができる世界については、その存在を疑う理由はありません。でも、いまの場合は、われらにはどうあっても見ることが不可能な世界が問題となっています。ですから、そんな世界が存在するとどういう根拠で言うことができるのかということが疑問となるのです。

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仏智不思議 [『教行信証』精読2(その204)]

(14)仏智不思議

 仏智不思議と言いますのは、ただ仏智は神秘的だと言っているのではなく、仏智というものはわれらがそれを思議することができるものではないということです。思議するとは「思いはかる」こと、ああだこうだと考えることで、われらがいつもしていることです。そして思いはかるとは、思いはかる自分と思いはかられる相手を分離することです。われらは何かを考えようとしますと、そんなふうに考える主体と考えられる客体を分離し、そうして主体が客体の前に立つということにならざるをえません。これが人知というものですが、仏智はそのように主客を分けて思いはかることがないというのが仏智不思議ということです。
 われらが救いということを考える場合も、そこには当然のこととして、自分と自分以外の人たち(もっと広げて生きとし生けるものたち)との分離が持ち込まれ、自分の救いと衆生の救いは分かれざるをえません。どれほど親しく近しい関係にあるといえども、自他は分かれざるをえず、自分の救いと他の救いとは別とならざるをえません。ところが仏智においては「若不生者、不取正覚」で、仏と一切衆生はひとつであり、自分の救いと一切衆生の救いはひとつです。
 さて、われらは人知の世界にどっぷりつかっていますから、仏智の世界があるなどと思いもしない。これが不了仏智、仏智を疑うということです。
 これはけだし当たり前であって、むしろ仏智などというものがあると思う方がどうかしていると言うべきでしょう。われらが生きている人知の世界が唯一の世界であって、それ以外の世界があるはずがないと思うものです。ところがあるとき仏智がみずからその姿をあらわすことがあるのです。人知から仏智への通路はありませんが、仏智から人知への扉は開き、そこからふと仏智が姿をあらわす。これが本願に遇うということですが、こうしてはじめて仏智の世界があることに気づくのです。
 としますと仏智を疑うとは、仏智の世界をいまだ垣間見たことがないということであり、人知の世界が唯一の世界だと思い込んでいることに他なりません。人知の世界にどっぷり浸っている人を親鸞は誡疑和讃で「罪福信じ善本を、たのめば辺地にとまるなり」と詠っていました。そのように、善をなせば善果を得、悪をなせば悪果を得ると思い、自力作善につとめようとする、これが化土のありように他なりません。娑婆とは別のどこかに化土があるのではありません、娑婆が化土の相をとるのです。

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報土と化土 [『教行信証』精読2(その203)]

(13)報土と化土

 親鸞は『正像末和讃』のなかで仏智不思議を疑惑することによる化土往生についてたくさんの和讃を作っています(誡疑和讃)。「不了仏智のしるしには、如来の諸智を疑惑して、罪福信じ善本を、たのめば辺地にとまるなり(仏智不思議をしらずして その真実をうたがえば 世の善悪をたよりとし 浄土のほとりにとどめらる)」にはじまり、最後の「仏智うたがふつみふかし、この心おもひしるならば、くるゆこころをむねとして、仏智の不思議をたのむべし(ほとけの智慧をうたがうは きわめてつみのおもいこと それに気づけばたちまちに 悔いて本願たのむ身に)」まで同じ趣旨のうたが23首もあります(カッコ内は下手な私訳)。
 さてこれまで見てきましたように、仏智不思議を信ずるとは、仏の心(本願)とわたしの心がひとつになることであり、それが取りも直さず報土に往生することに他なりません。そして報土に往生するとは言っても、この娑婆とは別のどこかにある報土に往くわけではなく、仏智不思議が「いまここに」はたらいている事実を場所として表現して報土と言っているのであり、それに気づくことを往生と言っているのです。この娑婆のただなかに仏智不思議がはたらいている相が報土であり、それに気づいていることが往生です。としますと、仏智不思議を疑う結果として化土にとどまるというのはどういうことか。
 これまた娑婆とは別に、そして報土とも違うところに(そのほとりに)化土があるとするわけにはいきません。経典に説かれる神話的表象を非神話化しなければなりません。そこで、そもそも仏智不思議とは何であり、それを疑うとはどういうことか、ここに戻って考えてみたいと思います。仏智がことばとしてはっきりあらわされているのが弥陀の本願ですが、それをひと言に凝縮すれば「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」(第18願)となります。すなわち一切衆生が救われなければ自分の救いもない、一切衆生の救いと自分の救いはひとつであるということであり、もうひとつ言えば、一切衆生と自分はひとつだということです。

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本文5 [『教行信証』精読2(その202)]

(12)本文5

 次は源信を讃える偈です。まずは前半4句。

 源信ひろく一代の教をひらきて、ひとへに安養に帰して一切をすすむ。専雑1(せんぞう)の執心、浅深を判じて、報化二土2まさしく弁立せり。(源信広開一代教、偏帰安養勧一切、専雑執心判浅深、報化二土正弁立)

 注1 専修(もっぱら他力念仏のみを修める)と雑修(様々な自力の行を修める)。
 注2 真の浄土である報土と方便の浄土としての化土。

 (現代語訳) 源信和尚は釈迦一代の教えを広く学び、結局のところ偏に安養浄土の教えに帰してみなに勧められました。専ら念仏の信心に深く執心するのと、万善諸行を浅く修するのとを比べて、前者によってのみ報土往生ができ、後者では化土の往生にとどまることを明らかにしました。

 往生要集を読みますと、源信が如何に博覧強記の人であるかがよく分かります。若い頃、南都の学僧たちと渡り合って、その学識の深さを思い知らしめたというエピソードがありますが(応和の宗論)、さもありなんと思わせられます。とにかく引用される経論釈の数の多さには舌を巻きますが、そうした仏道修行の末に彼がたどり着いたのは浄土の教えでした。かくして「ひとへに安養に帰して一切をすすむ」ために著されたのが往生要集です。第1章で穢土を厭離すべきことが説かれ、第2章で浄土を欣求すべきことが説かれます。そして浄土に往生するための念仏の道について以下の章においてさまざまな角度から詳しく説いていくのです。
 さてここで親鸞が注目するのが、専修と雑修の違い、そしてそれに対応するものとしての報土往生と化土往生の違いです。他力念仏によってはじめて報土に往生でき、自力の万善諸行によるのでは化土の往生にとどまるということです。この相違の大本は他力すなわち仏智不思議のはたらきを信ずるか、それとも仏智不思議を疑い、自力により往生と成仏を手に入れようとするかどうかというところにあります。それが報土往生と化土往生の違いとなってあらわれるというのですが、さてこの報土と化土をどのように理解すればいいでしょうか。

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