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あきらかに聴け、あきらかに聴け [『観無量寿経』精読(その17)]

(5)あきらかに聴け、あきらかに聴け

 「まさに三福を修すべし」と述べた後、釈迦は次のように説きます。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。如来、いま未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために(煩悩に悩まされるもののために)、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、なんぢまさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執(と)りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍(むしょうぼおうにん、仏の覚り)を得ん」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ、弱く劣る)にしていまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便(特別の方法)ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。時に韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪(じょくあく)不善にして五苦に逼(せ)められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

 釈迦はいよいよこれから韋提希と未来世の一切衆生のために西方極楽浄土を観る特別の方法を説こうと宣言します。そして言います、衆生がどれほど煩悩の賊のために害されていても、曇りのない鏡で己の顔を見るようにかの清浄の国土を見ることができるであろうと。ここで注目したいのが「仏力をもつてのゆゑに」という一句です。煩悩まみれの凡夫で、その心想がどれほど羸劣であろうとも、かの国土の極妙を見て心歓喜することができるのは、ただ「仏力をもつてのゆゑに」であるということ、それをここできっちり述べているということです。
 韋提希が、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る」ことができますが、仏滅後の濁悪不善の衆生はどうなるのでしょうか、と心配していることから分かりますように、この仏力とはここでは釈迦仏の力です。しかし、それがより本質的には弥陀仏の力であることが次第に明らかになっていきます。

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まさに三福を修すべし [『観無量寿経』精読(その16)]

(4)まさに三福を修すべし

 先に、釈迦は韋提希に「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、此を去ること遠からじ」と言っていましたが、ここでも「なんぢいま、知れりやいなや」と繰り返されていることに注目したいと思います。この三福こそ「過去・未来・現在、三世の諸仏」が成仏された正因であることをあなたは知っているでしょうか、と尋ねているのですが、ここには、先の韋提希の口から漏れたことばに対する釈迦の気持ちの反映があるように感じられます。
 韋提希は「世尊、われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属(けんぞく)たる」と愚痴をこぼし、「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」と述べていました。「わたしには何の罪もありませんのに、どうしてこんなにひどい悪人に囲まれていなければならないのでしょう」と嘆く韋提希に、「あなたは周りのことばかり言いますが、あなた自身はどうでしょう、ほんとうに罪がないと言えますか」と反問しているのではないでしょうか。
 それが「過去・未来・現在、三世の諸仏」はみな三福を修することで仏になったのですよ、それをあなたは知っていますか、ということばとなってあらわれているのではないかと思うのです。このすぐ後で、釈迦が韋提希に「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ、弱く劣っている)にして」と述べるところがありますが、自身は凡夫であり、心想羸劣であることを自覚しているかどうか、これが「憂悩なき処」に入るうえで決定的であることを匂わしているに違いありません。阿弥陀仏は「此を去ること遠からじ」ですが、その「アミタのいのち」に遇おうとすると自身の心想が如何に羸劣であるかに気づかなければならないということです。
 「まさに三福を修すべし」ということばには「なんぢ自身を知れ」という思いが込められているに違いありません。

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「アミタのいのち」を「観る」 [『観無量寿経』精読(その15)]

(3)「アミタのいのち」を「観る」

 「アミタのいのち」を「観る」というのは、どうしてそんなことが可能かということは別にして、それがどういうことなのかは分かりやすいと思いますが、それに対して「アミタのいのち」を「聞く」とはどういうことか、すぐにはピンときません。その「聞く」ことについて分かりやすく教えてくれるのが善導の「二河白道の譬え」と言えるでしょう。貪欲と瞋恚の二河の間にある幅4,5寸の白道(これが本願・念仏の道です)の前にたたずむ旅人に河の西岸から「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という声が聞こえるというのです。
 この声が「アミタのいのち」の名のりであり、招喚の勅命です。「アミタのいのち」が名のりを上げ「ただちに来れ」と招喚してくれるこの声に吸い寄せられるように、旅人は決然と一歩を踏み出す、これが「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」のときです。そしてそれが「即得往生(すなはち往生を得)」(いずれも第18願成就文)に他なりません。こんなふうに「アミタのいのち」を「聞く」とは、それに思いがけず捉えられる(ゲットされる)こと、「ただちに来れ」という声に全身が鷲づかみされることですが、では「アミタのいのち」を「観る」とはどういうことか。
 それは「アミタのいのち」をこちらから捉えようとする(ゲットしようとする)ことです。そしてそれと一体になろうとする。さて考えなければならないのは、「アミタのいのち」を「観る」、すなわちこちらからゲットすることが可能かどうかということです。「わたしのいのち」は「ミタ(有量)のいのち」ですから、それが「アミタ(無量)のいのち」を捉えることができるはずがありません。そもそも「アミタのいのち」を「観る」ことはできる相談ではないということです。にもかかわらず釈迦は韋提希の願いをいれて、「アミタのいのち」を「観る」ための方法を語ろうと言う。そのことを「譬へを説き」ということばに託していると考えられます。
 さて、「アミタのいのち」を「観る」ことを説くに先だって「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」と言われますが、これはどういうことでしょう。三福とは、まず世福(世俗的な善)として「父母に孝養し、師長に奉事し云々」、そして戒福(小乗の善)として「三帰を受持し、衆戒を具足し云々」、さらに行福(大乗の善)として「菩提心を発し、深く因果を信じ云々」の三つですが、これが真っ先に言われるのはどうしてか。

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此を去ること遠からず [『観無量寿経』精読(その14)]

(2)此を去ること遠からず

 「なんぢいま、知れりやいなや」という釈迦の問いかけには、韋提希は阿弥陀仏の浄土をここからはるかに隔絶している世界と思っているに違いないという気持ちが滲んでいます。また『無量寿経』や『阿弥陀経』には「ここを去ること十万億刹」とか「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」という表現があったことも思われます。そこであらためて確認しておきたいのは、穢土と浄土は「二つの世界」ではないということです。「わたしのいのち」に囚われて生きるところが穢土であり、それに対して、すでに「ほとけのいのち」を生きていると気づいているところが浄土です。穢土と浄土は生き方の違いにすぎないということです。
 「わたしのいのち」しかないと思い込んでいた人が、それが囚われであることに気づき、「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づいたところに浄土が開示されるのですから、まさしく浄土は「此を去ること遠からず」です。穢土の足下に浄土が開けているのです。そのことと絡んで、釈迦が「われいまなんぢがために広くもろもろの譬(たと)へを説き」と述べていることに注目したいと思います。これから釈迦は阿弥陀仏とその浄土を「観る」ためにはどうすればいいのかを詳しく語ることになりますが、それを「譬へを説き」と言っているのはどういうことでしょう。これはこの経典をどう見るかという根本問題につながってきます。
 第1回の冒頭で『観無量寿経』というタイトルについて考えました。それは「無量寿」すなわち「アミタのいのち(ほとけのいのち)」を「観る」ということで、一方『無量寿経』が「アミタのいのち」を「聞く」経典であるのと好対照をなしていることに着目しました。そして広い意味での浄土経典には「観る」ことに軸をおく流れと、「聞く」ことに軸をおく流れの二つの潮流があり、前者は『般舟三昧経』にはじまり『観無量寿経』へとつながり、後者を代表するのが『無量寿経』であることも触れました。ここで「アミタのいのち」を「観る」ことと「聞く」ことのコントラストについてもう少し考えを進めてみたいと思います。

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なんぢいま、知れりやいなや [『観無量寿経』精読(その13)]

            第2回 此を去ること遠からず

(1)なんぢいま、知れりやいなや

 韋提希が諸仏の国土の中から阿弥陀仏の極楽浄土を選び、釈迦に「われに思惟(しゆい)を教へたまへ、われに正受(しょうじゅ)を教へたまへ」と願うところまで読みました。その次です。

 その時世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅(びんばしゃら、幽閉された大王)の頂を照らす。その時大王、幽閉にありといへども心眼(しんげん)障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面をもつて礼(らい)をなし、自然に増進して阿那含(あなごん、不還と訳され、再び欲界に還ってこない位、小乗の修道位の第三)と成る。
 その時世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、此(ここ)を去ること遠からず。なんぢまさに繫念(けねん、心を一つの対象に集中する)して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬(たと)へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽浄土に生ずることを得しめん。
 かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母(ぶも)に孝養(きょうよう)し、師長に奉事(ぶじ)し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰(仏・法・僧に帰依すること)を受持し、衆戒を具足し、威儀(規則にかなった正しい行い)を犯さず。三つには菩提心を発(おこ)し、深く因果を信じ、大乗(大乗の経典)を読誦して、行者を勧進(人に仏道を勧める)す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。

 釈迦の口から出た光が頻婆娑羅の頭頂を照らしたことが述べられたのち、釈迦がはじめて口を開きます。その第一声が「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、此を去ること遠からず」でした。「あなたは阿弥陀仏の浄土を選びましたが、知っているでしょうか、それはここから遠く隔たったところにあるのではありませんよ、すぐそこにあるのです」というのです。

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「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [『観無量寿経』精読(その12)]

(12)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

 さて我執から抜け出すとはどういうことでしょう。我執とは「わたしのいのち」しかないとそれに囚われることですが、その囚われに気づき、それから抜け出すとは「わたしのいのち」ならぬいのちに気づくということです。「わたしのいのち」ならぬいのちを「ほとけのいのち(無我のいのち)」と名づけるとしますと、「ほとけのいのち」に気づくのです。しかし、その一方で依然として「わたしのいのち」に囚われたままですから、「わたしのいのち」にしがみつきながら、同時に「ほとけのいのち」に気づいている。「わたしのいのち」を生きながら、同時に「ほとけのいのち」を生きる、これが我執から抜け出すということです。
 かなり長い道のりを歩んできました。「厭離穢土、欣求浄土」の穢土と浄土について、これは時空的に隔絶した「二つの世界」ではないということを述べてきました。こちらに穢土、あちらに浄土と「二つの世界」があるのではありません。「わたしのいのち」に囚われて生きるとき、そこが穢土であり、「ほとけのいのち」を生きていると気づいたとき、そこが浄土です。そしてわれらは本願に遇うことにより、「わたしのいのち」に囚われていることに気づかされ、同時に「ほとけのいのち」の生きていることに気づかされるのですから、穢土に生きながら同時に浄土に生きているのです。
 韋提希の「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」ということばに戻りましょう。これは「もうこんな世の中はつくづく嫌になった、どこか別の世界で安楽に生きたい」という身勝手な願いに聞こえますが、釈迦はそれを指摘することなく、韋提希の「われに教えて清浄業処を観ぜしめたまへ」の求めに応じて「十方諸仏の浄妙の国土」を眼前に開示します。そして韋提希はそのなかから阿弥陀仏の極楽浄土を選び、「われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と願うことになります。阿弥陀仏とその浄土をつぶさに観るための方法を教えていただきたいということでしょう。

                (第1回 完)

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囚われの気づき [『観無量寿経』精読(その11)]

(11)囚われの気づき

 かくして穢土とよばれる世界がどこかに客観的にあるわけではないことがはっきりしました。ここは穢土だと気づいて、そう気づいた人にはじめてここが穢土として姿をあらわすということであり、それは、これは我執(わがものへの囚われ)だと気づいて、そう気づいた人にはじめて我執が存在するようになるのと同じことです。そして大事なことは、「囚われている」ことに気づいたとき、すでにその囚われから解放されているということです。心が何かに囚われていることの本質は、それに気づいていないことにあり、気づいたときにはもう囚われていません。
 さてしかし話が複雑なのは、我執は「ああ、これは囚われだ」と気づいてもすっかり消えてしまうわけではないということです。何かに囚われているとき、これは囚われだと気づきますと、もう囚われから解放されていると言ったばかりですが、我執という囚われは、「ああ、これは囚われだ」と気づいても、それからすっかり解放されることはないのです。そのことは「わたしのいのち」を考えてみれば明らかです。われらは何の疑問もなく、これは「わたしのいのち」だと思って生きていますが、このことは生きることの根本前提であり、これを手放すことは生きることを手放すことです。
 では我執に気づくとはどういうことかといいますと、これまでは何も思うことなく、ただひたすら「わたしのいのち」を生きてきたのですが、あるときふと「ああ、これまで“わたしのいのち”に囚われてきたのだ」と気づくのです。このいのちは「わがもの」であるとしがみついて生きてきたことに気づくのですが、そのとき何がおこるか。ひとつには、これは囚われだと気づくことで、もう囚われから抜け出しています。でも、依然として「わたしのいのち」にしがみついています。囚われだと気づきながら、依然として囚われている。もう抜け出していながら、まだ抜け出していないという何ともすっきりしない状況にあります。
 これを「片足だけ抜け出す」ということもできます。片足はしっかり我執の中にありますが、もう片足はすでに我執から抜け出しているのです。

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内に虚仮を懐けばなり [『観無量寿経』精読(その10)]

(10)内に虚仮を懐けばなり

 思い出すのが善導のことば「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(『観経疏』「散善義」)です。これは普通に読みますと、「内に虚仮を懐き、外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」となります。心の内に煩悩を隠しておいて、外に向かってそんなものはございませんという顔をしてはいけないということです。ここには、われらが煩悩に穢れているのは確かだが、しかしそれを抑えるべく精進することができるし、またしなければならないという思いがあります。そうした努力をしないでおいて、賢善精進であるかのように装ってはいけないと言っているのです。きわめて穏当で常識的です。
 ところが親鸞はこれを「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みます。一見どう違うのか見分けがつかないかもしれませんが、この読みには容赦がありません。われらはもうどうしようもなく煩悩に穢れているのだから、賢善精進の人であるかのようにみせてはならぬと仮借なしです。先の読みでは、われらに煩悩があるのは間違いないが、しかしそのなすがままであってはならず、正そうと思わなければならない、われらにはその力があると言っています。しかし、この読みでは、われらにそんな力がありもしないのに、あるかのように思うこと自体が虚仮であると言うのです。
 「この世は穢土」というのは、親鸞的には、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということです。
 これは客観的な認識ではなく、ひとつの気づきであるということ、ここに思いを潜めたい。親鸞が「みなもつてそらごとたはごと」と言うのは、釈迦が「みな“わがもの”に執着している」と言うのと畢竟同じことです。われらの生きることそのものが我執(わがものへの囚われ)であるということ、これです。そして「わがものに囚われている」ことをわれらが客観的に認識することはできません。何かを客観的に認識するとは、それを「わがもの」としてゲットするということに他なりませんが、「わがものに囚われている」ことを「わがもの」としてゲットすることほど奇妙奇天烈なことはありません。「わがものに囚われている」ことは、どこかから気づかせてもらうしかないということです。

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穢土と浄土 [『観無量寿経』精読(その9)]

(9)穢土と浄土

 浄土の教えのエートスは「厭離穢土、欣求浄土」ということばに現れていますが(このことばはもともと源信の『往生要集』の第1章と第2章の題名です)、このことばには人をあらぬ方向へといざなう危険性があります。仏教には、先の因縁の場合もそうでしたが、いつの間にか、その本来の姿とはおよそ違うものに受け取られていることがたくさん見られます。釈迦の教えがそれだけ微妙で複雑な色合いをしており、うっかり見誤られやすいということです。
 穢土と浄土ということばについて考えておきましょう。このことばからごく自然に浮かぶのは対極的な二つの「世界」です。一方は煩悩にまみれた濁悪の世界、他方は煩悩のない浄らかな世界。この二つの世界は成り立ちの根本が異なりますから、両者は果てしなく隔たっていると言わなければなりません。『無量寿経』ではそれを「ここを去ること十万億刹(さつ、国土)」と言い、『阿弥陀経』では「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」と言って、空間的に超絶していると言い表されます。
 この空間的な超絶性から、おのずと時間的な隔絶が帰結します。すなわち今生では穢土、来生で浄土ということです。これはしかし仏教の本来からしてどんなものでしょう。釈迦は無我を説きましたが、こちらは「我(我執)の世界」、彼方に「無我(涅槃)の世界」というように、二つの世界が隔絶しており、したがって「無我の世界」に往くのは来生であると考えていたのでしょうか。到底そうだとは思えません。そもそも釈迦は死後のことについては「無記(語れない、語らない)」の姿勢を貫いた人です。
 まず言わなければならないのは、穢土とよばれる世界がどこかに客観的に(だれにとっても同じように)あるのではないということです。
 先ほど穢土というのは煩悩にまみれた世界と言いましたが、そのように聞かされますと、この世は確かにそのような世界に違いないと思うのが普通でしょう。自分や周りを見回して、みな多かれ少なかれ煩悩に穢れていると言わざるを得ません。ですからわれらが生きているこの世界は客観的に穢土と言っていいように思えます。さあしかし、ここは穢土というのは、みな多かれ少なかれ貪欲(貪りのこころ)や瞋恚(怒りのこころ)をもっているというぐらいのことを言っているのでしょうか、あらためて考え直す必要があります。

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わがために広く憂悩なき処を説きたまへ [『観無量寿経』精読(その8)]

(8)わがために広く憂悩なき処を説きたまへ

 さて韋提希はこんなふうに愚痴を漏らしたのち、釈迦に次のように述べます。

 やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提(えんぶだい、須弥山の南の大陸、インド)の濁悪(じょくあく)の世をば楽(ねが)はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて、五体を地に投げ、哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日(釈迦を日に喩えていう)、われに教えて清浄業処(ごっしょ)を観ぜしめたまへ」と。その時世尊、眉間の光を放ちたまふ。その光金色なり。あまねく十方無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住(とど)まりて化して金(こがね)の台(うてな)となる。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙(じょうみょう)の国土、みななかにおいて現ず。あるいは国土あり、七宝合成(ごうじょう)せり。また国土あり、もつぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮(じざいてんぐ、欲界の最高天、他化自在天の宮殿)のごとし。また国土あり、玻璃鏡(はりきょう、水晶でできた鏡)のごとし。十方の国土、みななかにおいて現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕(ごんけん、おごそかであきらか)にして観つべし。韋提希をして見せしめたまふ。時に韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と。

 この前半部分において韋提希の「厭離穢土、欣求浄土」の思いがあふれています。それは「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」ということばに明らかですが、さてしかし、この思いも、先の愚痴とつなげてみますと、「ああ、もうこんな穢れた世の中はつくづく嫌だ、どこぞに何の憂いもない浄らかな世界がないものか、そこに往って安らかに生きたい」という一種の現実逃避、あるいは見果てぬアナザーワールド願望と見ることもできます。さて、この願いに応えるのが浄土の教えでしょうか。

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