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逃ぐるを追はへとる [『観無量寿経』精読(その48)]

(8)逃ぐるを追はへとる

 先の真身観においては「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という一節にすべてが凝縮されていましたように、ここ観音観においては「その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引したまふ」という一文にすべてが集約されていると言わなければなりません。やはり、こちらから観音の姿を「観る」ことではなく、むこうから観音の光明に「照らされ」、「接引される」ことに救いの本質があるということです。観音のさまざまな相好を「観よう」とすることは、観音の光明に「照らされる」ことに気づかされる手立てにすぎません。
 光明に「照らされる」ことは、それに「気づく」ことであるということ、それに「気づいて」はじめて光明に照らされたことになるということ、逆に、それに気づかなければ光明はどこにも存在しないということ、ここにもう一度たちかえりたいと思います。『浄土和讃』に「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 弥陀仏となづけたてまつる」という一首があるのはよく知られていますが、その「摂取してすてざれば」の左訓として「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と記されています。
 この「逃ぐるを追はへとる」という言い回しは何とも味わい深く、示唆するところが大きいと思われます。
 弥陀の光明はあらゆる衆生をもれなく照らしているのに、衆生はそれから逃げようとするというのです。しかし、それを追いかけては、摂取して捨てないのが阿弥陀仏であると。光明から逃げると言っても、そんなふうに意識してのことではないでしょう、無意識のうちに逃げ回るのです。光明に照らされているのに、それに気づかないよう無意識のうちにブロックしているということです。なぜでしょうか。光明に照らされることに不都合があるということに違いありません。そしてそのことをこれまた無意識のうちに感じているということです。

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観音観 [『観無量寿経』精読(その47)]

(7)観音観

 次に第十観、観音観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已(おわ)りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩、身の長(たけ)八十万億那由他由旬なり。身は紫金色なり。頂に肉髻(にくけい)あり。項(うなじ)に円光あり。面(おもて)おのおの百千由旬なり。その円光のなかに五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に五百の化菩薩と無量の諸天ありて、もつて侍者たり。挙身の光(全身から出ている光)のなかに五道の衆生の一切の色相、みななかにおいて現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝(びりょうかまにほう)あり、もつて天冠とす。その天冠のなかに、ひとりの立化仏(阿弥陀仏の化身)まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は、閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相に七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出(るすい)す。一々の光明に、無量無数百千の化仏まします。一々の化仏は、無数の化菩薩をもつて侍者とす。変現自在にして十方世界に満てり。たとへば紅蓮華色(ぐれんげしき)のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞(ようらく、身の飾り)とす。その瓔珞のなかに、あまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華色をなす。手の十指の端に八万四千の画(え)あり。なほ印文(判で押した文様)のごとし。一々の画に八万四千色あり。一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引(しょういん)したまふ。足を挙げたまふ時、足の下に千輻輪(せんぷくりん、輪に千の放射状の輻がある模様)の相あり、自然に化して五百億の光明の台(うてな)となる。足を下ろしたまふ時、金剛摩尼(堅固な摩尼宝珠)の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし。その余の身相・衆好、具足せること仏のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂(肉髻の頂点は誰も見ることができないことから)の相、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実色身を観ずる想とし、第十の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まさにこの観をなすべし。この観をなすものはもろもろの禍に遇はず。業障を浄除し、無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩は、ただその名を聞くだに無量の福を獲。いかにいはんやあきらかに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まづ頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相、また次第にこれを観じて、また明了なること、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす。

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出離の縁あることなし [『観無量寿経』精読(その46)]

(6)出離の縁あることなし

 曽我量深氏はどこかで、この無縁の大悲について、これは「機の深信」にある「出離の縁あることなし(無有出離之縁)」の「無縁」と深く対応していると述べています。仏の無縁の大悲は、われらが出離に無縁であるからこそはたらくのだということです。仏の大悲の無縁とわれらの出離の無縁とはひとつにつながっているというのです。彼の慧眼にはもう感服するしかありません。どういうことか、彼の言わんとするところを後追いしておきましょう。
 善導は「信ずる」ことに二つの面があるとして、その一つが「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」ることであり、そしてそれは同時に「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」ることであると教えてくれました(『観経疏』「散善義」)。前者は「機の深信」、後者は「法の深信」とよばれ、この二つは二つにして一つであり、「機の深信」のあるところ必ず「法の深信」があり、「法の深信」のあるところ必ず「機の深信」があると教え継がれてきました。善導はこれだけでも浄土教の歴史の中で永遠に輝いています。
 さて曽我量深氏が言うのは、われらは「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」であるからこそ、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して」くださるのだということです。われらが出離に縁のない衆生であるからこそ、そのようなものに止むにやまれずかけられるのが如来の無縁の大悲であると言うのです。われらには救われるべき衆生縁(人間的な縁)も、法縁(仏法の縁)もありません。そんな無縁の衆生に、無縁の大悲がはたらくのです。これをわれらの側からいいますと、われらが仏の無縁の大悲に遇うことができたときには、われらはどこまでも苦海から出離する縁のない罪悪生死の凡夫であるという気づきがあるということです。
 われらに「出離の縁あることなし」という気づきがあって、はじめて仏の無縁の大悲に遇うことができるのです。

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無縁の大慈悲 [『観無量寿経』精読(その45)]

(5)無縁の大慈悲

 仏を観るとはいうものの、それは実のところ、仏の光明に照らされることであり、その光明に摂取されることであることを見てきました。さてさらに、「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ」と説かれます。仏身を観ることは仏心を観ることでもあり、仏心を観るとは、実のところ、仏の大慈悲に摂取されることであるというのです。そして仏の大慈悲とは「無縁の慈」であると言われます。われらは「無縁の慈」に摂取されるということ、これについて思いを潜めたい。
 曇鸞は『論註』において、「慈悲に三縁あり」と論じています、「一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり」と。そしてさらにつづけて「大悲はすなはちこれ出世(世間を超えたさとりの世界)の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり」と述べ、浄土は仏の無縁の大悲より生じたと明かしてくれます。曇鸞は『浄土論』の「正道の大慈悲、出世の善根より生ず」という文を注釈するなかでこう述べているのですが、そのとき彼の頭にはこの「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ」という『観経』の一節があったに違いありません。
 さてこの無縁の慈悲とはどういうことでしょう。曇鸞は無縁の大悲に対して、衆生縁は小悲で、法縁は中悲と言うだけで、それ以上の説明はしてくれませんが、前後から判断しますと、まず衆生縁とはわれらのごく普通の慈悲心のことでしょう。われらの親切心は何らかの人間的な縁(つながり)のある範囲にとどまります。一方、法縁は、これといった縁は何もないが、でもそのまま座視しているのは仏法に反すると思う、そのような慈悲心を指すのでしょう。ひどい災害に遭われた人を見て、何とかしてあげたいと思うようなことです。それに対して無縁の大悲は、文字通り何の縁もないが、一切の衆生に分け隔てなくかけられる仏の絶対平等の大慈悲心です。

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信心とは光明・名号の気づき [『観無量寿経』精読(その44)]

(4)信心とは光明・名号の気づき

 としますと、経の「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」というのは、「信心の衆生を摂取して捨てたまはず」という意味だということになります。弥陀の光明は「あまねく十方世界を照らす」が、文字通り一切衆生を摂取するのではなく、信心の衆生を摂取するということです。これで先ほどよりは違和感が薄らいだと思いますが、でもまだこだわりが残るかもしれません。そりゃまあ信心がないことには何ともならないのかもしれないが、しかしどうしても信心をもてない人もいると思う。そのような人は「縁なき衆生」として置き去りになるのだろうか、と。
 ここで指摘しなければならないのは、信心とは弥陀の光明・名号に、われらがプラスする何ものかではないということです。普通、何かを信じるというのは、それに太鼓判を押すということ、これは間違いありませんと保証することです。しかし信心というのは、弥陀の光明・名号に太鼓判を押すことではありません。そのようにわれらがプラスすることではなく、むしろわれらから何かがマイナスされることです。これまで心が濁っていて見えなかったのが、その濁りがさあーと澄んで(信心と訳されるサンスクリット「プラサーダ」は「澄む」ということです)、光明と名号がくっきりあらわれる、これが信心です。
 信心とは弥陀の光明・名号に「気づく」ことに他なりません。
 すぐ前のところで、弥陀の本願はそれが衆生に届いてはじめて本願としてのはたらきをすると言いました。そして本願を衆生の手元に届ける手立てが光明と名号であるとも言いました。さてここで留意しなければならないのは、この光明と名号は、普通の光や普通の声のように、誰にも同じように存在するものではないということです。光明と名号は、それに気づいた人にだけ存在し、気づかない人にはどこにもありません。ここまできまして「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」の意味が明らかになります。光明は一切の衆生を照らしているのです。でも、それに気づきませんと、光明などどこにもなく、気づいた人にはじめて存在し、「摂取して捨てず」というはたらきをすることができるのです。

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念仏の衆生を摂取して捨てたまはず [『観無量寿経』精読(その43)]

(3)念仏の衆生を摂取して捨てたまはず

 善導は『往生礼讃』において「しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発(おこ)して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」と述べています。すなわち弥陀仏は深重の誓願を発しましたが、それがわれらのもとに届くのに(仏の願いはそれが衆生に届いてはじめて願いとしてのはたらきをします)、光明と名号という二つの手立てをとるということです。親鸞はこれを受けて、「まことに知んぬ、徳号(名号です)の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん」(「行巻」)と言います。本願がわれらのもとに届き、われらが浄土に往生するのに、名号という因と光明という縁が設えられているということです。
 ところで「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という文言のなかの「念仏の衆生を」という一句が気にならないでしょうか。弥陀の光明は「あまねく十方世界を照らす」のであれば、「一切の衆生をもれなく」摂取してよさそうに思われますが、「念仏の衆生を」摂取するというのはどういうことだろうと。この念仏は、上に言いましたように、名号を称えるということではなく、仏を憶念するということですが、それにしても、「念仏の衆生」だけ摂取するということであれば、「あまねく十方世界を照らす」ことにならないのではないかという不審がおこります。何か排他的な匂いがするぞと。
 そこで、先の善導のことばにも、また親鸞のことばにも、それにつづく大事な一節があることに留意したいと思います。善導の「光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」の後には「ただ信心をもつて求念せしむれば」とつづき、親鸞の「所生の縁そむきなん」の後には「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、心の識別作用)にあらずは光明土に到ることなし」とあります。どちらも、光明と名号がそろっていても、そこにわれらの信心がなければ光明も名号もはたらくことができず、浄土に往生することができないという趣旨です。

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一々の光明は、あまねく十方世界を照らし [『観無量寿経』精読(その42)]

(2)一々の光明は、あまねく十方世界を照らし

 無量寿仏の「身相と光明」を観ずべしと述べられますが、その身相については、もうわれらの心にとっておよびもつかないものであることにため息をつくしかありません。身体の色は「百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし」であり、その高さは「六十万億那由他恒河沙由旬」で、その眉間の白毫は「五つの須弥山のごとし」、さらにその眼は「四大海水のごとし」というように言われても、ただことばが中空で踊っているだけで、具体的なイメージを結ぶことはありません。
 何度も繰り返してきましたように、「ミタ(有量)のいのち」が「アミタ(無量)のいのち」に近寄るすべはないのです。しかし光明はどうでしょう。これもこちらから観ようとしますと、とても眩くて目がつぶれてしまいますが、むこうから照らされるということでしたら、実感をもってイメージできます。これまでの「観る」と「聞こえる」の対に、「観る」と「照らされる」というコントラストを加えなければなりません。「観る」は「こちらから」で、「照らされる」は「むこうから」であり、あるいは、「観る」は「わたしから」で、「照らされる」は「ほとけから」です。
 ここであまりに有名な一節が出てきます、「光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」と。
 無量寿仏には八万四千の相があり、その一々の相には八万四千の好があり、その一々の好に八万四千の光明があって、その光明はあらゆる世界を隈なく照らし、念仏の衆生を包摂して漏らすことはないというのです(ここで「念仏」というのは、これまでの流れからしまして、仏や浄土を心に観想するということであり、後で出てくる称名念仏のことではありません)。仏はこちらからどれほどアクセスしようとしても、原理的にできる相談ではありません。しかしむこうからやってきてくださり(タターガタ、如から来るのです)、われらをそのまま摂取してくださるということ、ここに浄土の教えのもっとも重要なメッセージがあります。

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真身観 [『観無量寿経』精読(その41)]

            第4回 摂取して捨てたまはず

(1)真身観

 いよいよ第九観、真身観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿仏の身相と光明とを観ずべし。阿難まさに知るべし、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色(えんぶだんごんじき)のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬(ゆじゅん)なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転(えんでん)して五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明(しょうびゃくぶんみょう、青い瞳と白目の境がくっきりしている)なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出(えんすい)す。須弥山のごとし。かの仏の円光(頭から出る光明)は、百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈(絶対平等の慈悲)をもつてもろもろの衆生を摂したまふ。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前(みまえ)に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繫けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。
 無量寿仏を観ぜんものは、一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記したまふ。これをあまねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

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心に仏を想うとは [『観無量寿経』精読(その40)]

(14)心に仏を想うとは

 このように見てきますと、「心に仏を想ふ」というのは、こちらにある「心」があちらにおわす「仏」を「観る」のではないということがはっきりします。むしろ、ここで仏が多陀阿伽度(ただあかど)すなわちタターガタということばで呼ばれていますように、真如(タター)より来りたまう(アーガタ)のが仏です。仏はむこうからやってきてわれらの心に信心の火を着けるのです。いや、こう言うべきでしょう、われらの心に信心の火が着いたとき、はじめて仏がわが心におわすと。信心のほかに仏ましまさずで、そのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。
 「この心作仏す、この心これ仏なり」と述べた後、「かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし」とあり、以下第八の像観が説かれていきます。次の第九観で無量寿仏そのものを観ることが説かれるのですが、それに先立ってまず仏の「像」を観よというのです。いきなり無量寿仏を観るのは難しいから、その像を観ることから入っていこうということでしょうか。そしてここでは無量寿仏(と観音・勢至の二菩薩)の像だけではなく、浄土の宝地・宝池・宝樹など、その荘厳があらためて展開され、あたかも当麻寺の浄土曼荼羅を見ているかのような気にさせられます。
 ただしかし、「心に仏を想う」とき、それを「観る」というかたちでは、そこにどうしても無理があると感じます。「観る」ときには、どうしても観られる仏と浄土は「あちらに」おかれてしまうからです。観る自分と観られる仏・浄土とが離れてしまうのです。すぐ前のところで言いましたように、仏はこちらから「観る」のではなく、むしろむこうからやってきてわれらの心に信心の火をともすのであり、それは仏の声が「聞こえる」というかたちにならざるをえません。そのことはここでも滲み出ていて、「行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳬(ふ)・雁・鴛鴦(えんおう)のみな妙法を説くを聞くべし」とあります。浄土曼荼羅を見るうちに、そのなかから声が聞こえてくるのです。その声はもちろん本願の声であり、本願の声が聞こえてきてほんとうに「心に仏を想う」ことができたのだと言わなければなりません。

                (第3回 完)

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心のほかに仏ましまさず [『観無量寿経』精読(その39)]

(13)心のほかに仏ましまさず

 しかしこの「心のほかに仏ましまさず」という言い回しはよほど注意が必要です。親鸞は「信巻」の序でこう言っています、「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶(へん)す」(末法の世の出家も在家も、また近頃の各宗の師たちも、自性唯心の考えに囚われて、浄土の真実の証を貶しています)と。自性唯心とは、すべては心のあらわれであり、仏も浄土も心以外の何ものでもないとするいわゆる唯心論のことですが、曇鸞が「心のほかに仏ましまさず」と言っているのは、一見したところ、この唯心論のことではないかと思われます。仏といい浄土というのは、われらの心のことであり、心のなかに仏がおわし、心のありようを浄土と言っているのではないかと。
 さてしかし、『観経』において、そして曇鸞にとっても、無量寿仏がわれらの心のなかにおわし、その浄土もわれらの心のありようであるなどということはとんでもない話です。そもそも無量寿仏という名からして、それは「アミタ(無量)のいのち」ですから、「ミタ(有量)のいのち」であるわれらの心のなかにいるはずがありません。曇鸞が「心のほかに仏ましまさず」と言うのは、「仏は心と無関係に存在しているのではない」ということであり、「仏は心の内に存在している」ということではありません。「仏は心の外にいるのではない」が、「仏は心の内にいるのでもない」のです。では何処に。
 もういちど先の「木と火の譬え」に戻りましょう。火は木とは別のどこかにあるのではなく、木に着くというかたち、木を燃やすというかたちではじめて存在します。その意味で、火は木の外にあるわけではありませんが、しかしだからといって、木の中にもともと内在していたのでもありません。つまり「木なるもの」と「火なるもの」が互いに関係なくどこかにあるのではなく、「木に着く火」、「火となって燃える木」という関係(繋がり)があるだけということです。そのように「心なるもの」と「仏なるもの」が互いに関係なく別々にあるのではなく、「心に着く仏」、「仏となる心」という関係(繋がり)があるだけです。
 「心に仏を想ふ時、…この心作仏す、この心これ仏なり」と言われていたことについて考えてきました。そしてその意味は、「心に仏を想ふ時」、その「心のほかに仏ましまさず」ということであることを確認できました。その時、木に火が着くように、心に仏が着いており、木が火に焼かれて火となるように、心が仏に焼かれて仏となっています。これが信心です。

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