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貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし [『観無量寿経』精読(その78)]

(11)貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし

 ここで頭に浮ぶのが善導『観経疏』の「至誠心釈」です。「貪瞋(とんじん)・邪偽・奸詐百端(かんさひゃくたん、奸はよこしま、詐はあざむく)にして悪性侵(や)めがたし、事、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。三業(身口意の業)を起すといへども、名づけて雑毒(ぞうどく)の善とす、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急を走(もと)め急になして頭燃(ずねん)を灸(はら)ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり」。
 これをいまの三福の教説につなげますと、われらがどれほど行福・戒福・世福を行じようと、その心のなかが「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ」であるならば「たとひ身心を苦励して日夜十二時に急を走め急になして頭燃を灸ふがごとく」しても「すべて雑毒の善」と言わなければならず、「この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可」だということです。ここから善導はこのような雑毒の善をなすのではなく、「須らく真実心のなかになすべし」と言います、そうしてはじめてかの国に往生することができるのだと。
 ところが親鸞は「須らく真実心のなかになすべし(須真実心中作)」という文を「真実心のなかになしたまひしを須(もち)ゐて」と驚くべき読みをすることで、われらをまったく異なる光景へと導いていくのです。われらの心はもともと「貪瞋・邪偽・奸詐百端」であって真実心など薬にしたくても何ひとつなく、それはすべて如来からやってくるというのです。善導は、われらは確かに「貪瞋・邪偽・奸詐百端」だが、しかし真実心もあるのだから、何ごとも「須らく真実心のなかになすべし」と言うのですが、親鸞は、われらにはそんな真実心はどこを探してもないと言い切ります。だからわれらとすれば如来が「真実心のなかになしたまひしを須ゐ」るしかないと。
 親鸞の気持ちを忖度しますと、これこそ善導が二種深信で言おうとしたことではないかということです。

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なんぢはこれ凡夫なり [『観無量寿経』精読(その77)]

(10)なんぢはこれ凡夫なり

 釈迦が韋提希の願いを受けて阿弥陀仏とその浄土の教えを説こうとした時、まずこの三福を上げたのでした、「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」と。そしてさらにこう付け加えていました、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。釈迦は阿弥陀仏とその浄土について語る前に、何をおいてもまず「三福を修すべし」と説いているのですが、これはどうしてでしょう。
 それを考えてみますと、釈迦は、救いを願う韋提希の心のありようを見抜いていたからに違いないと思われます。韋提希は「世尊、われ宿(むかし)、何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属なる」と愚痴をこぼし、さらには「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」と身も世もなく嘆いていました。
 釈迦はこんなふうに不満のたけをぶちまける韋提希に「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ、弱く劣っている)にして」と言い放ちます。「汝は周りに愚痴をこぼしているが、汝自身はどうか、その心想は羸劣ではないだろうか」と言っているのです。この濁悪の処は不善の聚ばかりだと言うが、汝に不善はないか、と目を自分自身に向けさせていると思われます。それが「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」ということばの真意ではないでしょうか。
 「三福を修すべし」ということばの裏に隠された真意は、「汝自身を知れ」であるということです。
 この三福の教えがここ九品段でより詳細に展開されており、上品の人は大乗の行福を修めることにより浄土に往生できるとされます。そして中品上生の人と中品中生の人は戒福を修めることで、上品の人に比べれば多少の差はあるとはいえ、しかし同じように往生がかない、また中品下生の人は世福を修めることで、さらにその質は劣るものの、でも間違いなく浄土に往生できると説かれます。これもまた「三福を修すべし」と説くことを通して己の真のありように気づかせようとしていると見ることができます。

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三福の教え [『観無量寿経』精読(その76)]

(9)三福の教え

 韋提希が「われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生ぜんことを楽(ねが)ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と請うたのに応じて釈迦が教えを説きはじめましたが、その最初に語ったのが三福でした。「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦して、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。極楽世界に生まれるためには、世福(世俗的な善)として「父母に孝養し、師長に奉事し」、そして戒福(小乗の善)として「三帰を受持し、衆戒を具足し」、さらに行福(大乗の善)として「菩提心を発し、深く因果を信じる」の三つを修めなければならないということです。
 この三福の教えと、いま読んでいる九品の往生との間につながりを見るのはそれほど難しいことではありません。すなわち、上品の三生の往生は大乗の善としての行福に、中品上生と中品中生の往生は小乗の善としての戒福に、そして中品下生の往生は世俗的な善としての世福に対応しているということです。上品から中品までは、それが大乗の善か小乗の善か、あるいは世俗的な善かの違いはあっても、みな善であり、したがって上品の往生人も中品の往生人もみな例外なく善人に違いありません。それに対してこの後に出てくる下品の人は、その程度に差はあっても、みな悪人であり、ここに大きな落差があると言わなければなりません(下品の人の往生をどう考えるべきかという問題が浮び上がりますが、それは後の課題として取っておきましょう)。
 さてこのように、釈迦は三福を修することによりかの国に生ずることができると説くのですが、これは自力の教えであることは言うまでもありません。そしてこれは本願他力の教え(彰の義)へと導き入れるための方便の教え(顕の義)であることをここであらためて確認しておきたいと思います。親鸞は「二善・三福は報土の真因にあらず。…如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と言っていました。

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中品 [『観無量寿経』精読(その75)]

(8)中品

 次に中品上生から中品中生、そして中品下生を一気に読みます。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「中品上生といふは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八斎戒を持(たも)ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患(かげん、つみとが)なからん。この善根をもつて回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す。命終る時に臨みて、阿弥陀仏は、もろもろの比丘とともに眷属に囲繞せられて、金色の光を放ちて、その人の所に至る。苦・空・無常・無我を演説し、出家の衆苦を離るることを得ることを讃歎したまふ。行者、見をはりて心大きに歓喜す。みづから己身を見れば蓮華の台に坐せり。長跪(じょうき)合掌して仏のために礼をなす。いまだ頭を挙げざるあひだに、すなはち極楽世界に往生することを得て、蓮華すなはち開く。華の敷(ひら)くる時に当りて、もろもろの音声を聞くに四諦を讃歎す。時に応じてすなはち阿羅漢道を得。三明六通(神通力)ありて八解脱を具す。これを中品上生のものと名つく。
 中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜に八斎戒を受持し、若しは一日一夜に沙弥戒(しゃみかい)を持ち、もしは一日一夜に具足戒を持ちて、威儀欠くることなし。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。戒香の熏修せる(持戒の徳が香のように染みている)、かくのごときの行者は、命終らんとする時、阿弥陀仏の、もろもろの眷属とともに金色の光を放ち、七宝の蓮華を持たしめて、行者の前に至りたまふを見る。行者みづから聞けば、空中に声ありて讃めてのたまはく、善男子、なんぢがごときは善人なり。三世の諸仏の教に随順するがゆゑに、われ来りてなんぢを迎ふと。行者みづから見れば、蓮華の上に坐せり。蓮華すなはち合し、西方極楽世界に生じて宝池のなかにあり。七日を経て蓮華すなはち敷く。華すでに敷けをはりて目を開き、合掌して世尊を讃歎したてまつり、法を聞きて歓喜し、須陀洹(しゅだおん、預流果のこと)を得、半劫を経をはりて阿羅漢と成る。これを中品中生ものと名づく。
 中品下生といふは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜん。この人命終らんとする時、善知識の、それがために広く阿弥陀仏の国土の楽事を説き、また法蔵比丘の四十八願を説くに遇はん。この事を聞きをはりて、すなはち命終る。たとへば壮士(しょうじ、若者)の臂を屈伸するあひだのごとくに、すなはち西方極楽浄土に生ず。生じて七日を経て、観世音および大勢至に遇ひて法を聞きて歓喜し、一小劫を経て阿羅漢と成る。これを中品下生のものと名づく。これを中輩生想と名づけ、第十五の観と名づく」と。

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信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す [『観無量寿経』精読(その74)]

(7)信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す

 諸行往生とは、自力でさまざまな行(定善・散善)を修めることにより往生をゲットしようとすることですから、首尾よく往生をゲットできるのは「これから先」のことであるのは言うまでもありません。さてではそれはいつのことか。往生をゲットするとは、これまで生きてきた世界とはそのありようがまったく異なる世界に新たに生まれるということですから、それは今生でのこととは考えられません。かくして、それは「寿終る時に臨んで」ということになります。「功徳を修して」往生を願うことと「寿終る時に臨んで」来迎を受けることは不離一体です。
 一方、本願他力による往生とは、あるときもう本願他力によって往生していると気づくことです。諸行往生がこちらから往生をゲットしようとするのに対して、むこうから往生にゲットされていたことに気づくのです。こちらから往生をゲットしようとしますと、往生は「これから」ですが、むこうから往生にゲットされていることに気づくときは、往生は「もうすでに」おこっています。そして、もうすでに往生していると気づくことが信心です。信心とは往生の気づきに他なりません。これが「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」ということです。
 さてしかし娑婆にいながら「その心すでにつねに浄土に居す」とはどういうことでしょう。このことばには元があり、それは善導『般舟讃』の「厭(いと)へばすなはち娑婆永く隔つ、欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり」という文です。娑婆を厭えば娑婆から離れることができ、浄土を欣えば浄土に居ることができるということで、ここを娑婆だと思えば娑婆であるし、浄土だと思えば浄土が目の前に開けるという意味でしょう。「何ごともこころの思いよう」ということですが、ただ、「思いよう」とは言うものの、自分の思いたいように自在に思えるものではありません。
 自分でそう思おうとして思うのではなく、そう思わざるをえない力のはたらきを感じてそう思うのです。これがこれまで何度も述べてきました「気づき」です。「ああ、ここは娑婆だ」と思うのは、娑婆の気づきをえているのであり、「ああ、浄土が開示されている」と思うのも、浄土の気づきをえているのです。そして、これまたこれまで繰り返し述べてきましたように、「ここは娑婆だ」という気づきと「ここは浄土だ」という気づきは二つにして一つです(機法二種深信です)。

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臨終の来迎 [『観無量寿経』精読(その73)]

(6)臨終の来迎

 ここであらためてテレポーテーションとしての往生のイメージについて思いを廻らせたい。往生ということばにはどうしても「移動」という語感がこびりついているということです。講座後の雑談のなかで、浄土はアナザーワールドではないという話は印象的だったが、でもアナザーワールドの方がよっぽど分かりやすいね、と言われた人がいました。言われる通り、「浄土へ往生する」ということばは、アナザーワールドへのテレポーテーションというイメージを喚起し、一旦このイメージに囚われますと、それからなかなか離れられません。
 先に『観経』の顕彰隠密について見てきました。『観経』で説かれている定善・散善の教えは顕の義(外に顕れた教え)であり、それは本願他力の教えという彰の義(内に秘められた教え)へと導き入れるための方便であるということでした。定善・散善と本願他力の顕彰隠密に対応して、往生にも顕の義と彰の義があります。すなわち定善・散善を修めることによる往生はあくまでも方便の往生であり、本願他力による往生が真実の往生ということです。
 前者は「行者命終わらんとする時に、阿弥陀仏、および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに金蓮華を持たしめて、五百の化仏を化作してこの人を来迎したまふ」という形をとります。一方、後者はと言いますと、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)で、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(同、第3通)となります。
 まず考えたいのは、定善・散善による往生(諸行往生)がどうして臨終の来迎という形をとるかということです。親鸞はこの諸行往生の元が第十九願にあることを見抜いていました。そこであらためてこの願をみてみますと、「十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿(いのち)終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」とあります。ここにはっきりと「功徳を修して…わが国に生ぜんと欲す」ことと「寿終る時に臨んで」来迎を受けることが結びついています。

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上品下生 [『観無量寿経』精読(その72)]

(5)上品下生

 次は上品下生です。

 上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗らず。ただ無上道心(この上ないさとりを求める心、菩提心のこと)を発(おこ)す。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。行者命終わらんとする時に、阿弥陀仏、および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに金蓮華を持たしめて、五百の化仏を化作してこの人を来迎したまふ。五百の化仏は、一時に手(みて)を授けて讃めてのたまはく、法子、なんぢいま清浄にして無上道心を発せり。われ来りてなんぢを迎ふと。この事を見る時、すなはちみづから身を見れば金蓮華に坐す。坐しをはれば華合す。世尊の後(しりえ)に随ひて、すなはち七宝の池のなかに往生することを得。一日一夜にして蓮華すなはち開け、七日のうちにすなはち仏を見たてまつることを得。仏身を見たてまつるといへども、もろもろの相好において心明了ならず。三七日(21日)の後において、すなはち了々に見たてまつる。もろもろの音声を聞くにみな妙法を演(の)ぶ。十方に遊歴(ゆりゃく)して諸仏を供養す。諸仏の前(みまえ)にして甚深の法を聞く。三小劫を経て百法明門(ひゃっぽうみょうもん、菩薩が初地において得る法門)を得、歓喜地に住す。これを上品下生のものと名づく。これを上輩生想と名づけ、第十四の観と名づく」と。

 九品の往生人の功徳の差に応じて、それぞれが往生してからのありようは大きく異なりますが(上品中生では蓮の華は一夜にして開くのに対して、この上品下生では一昼夜を要し、また中生では華が開いてすぐ仏を見ることができるのに対して、下生では七日を要する等々という具合に)、その一方で、臨終に阿弥陀仏や観音・勢至などの来迎を受け、一瞬のうちにかの国に往生するということではまったく違いません。すなわち臨終が点であることに応じて、往生も点であると思念され、往生とは一種のテレポーテーション(瞬間移動)であるわけです。

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自力の方便を通して他力の真実へ [『観無量寿経』精読(その71)]

(4)自力の方便を通して他力の真実へ

 前に嘘つきのパラドクスの話をしました、誰かが「わたしは嘘つきです」と表明するとき、パラドクスが炸裂し、わけが分からなくなると。でも他の誰かが「あなたは嘘つきです」と言うのを聞くときは事情がまったく別で、それに対して猛然と抗議するか、もしくはグーの音も出なくなるかのどちらかです。それとどこか似ているところがあり、自分が「わたしが本願を信じ念仏すれば往生できる」と表明するときは、本願を信じるのも念仏するのも「わたし」でしかなく、これはどこから見ても自力の信心、自力の念仏です。ところが他の誰かが「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と言うのを聞くときは、かならずしも自力の信心、自力の念仏ではなくなります。
 「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」という声も、ことばの上では「あなた」と呼びかけられている「わたし」が本願を信じ念仏すればというのですから、同様に自力と言わなければなりませんが、この呼びかけを聞くなかで、この呼びかけを通してどこかから「信心せよ」、「念仏せよ」という声が聞こえてくることがあります。そのとき、信心と念仏は「わたしに」おこるとしても、「わたしが」おこすのではなく、「信心せよ」、「念仏せよ」の声に促され、そうするようにはからわれていると感じます。これが他力の信心、他力の念仏です。
 これまで区別せずにきましたが、声を「きく」と言うときに、「聴く」と「聞く」があります。「聴く」はこちらから声をゲットしようとして、耳をそばだてて聴きます。誰かが「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と言うのを「きく」ときはこちらの「聴く」です。一方、その声を通して、その声の中から、「信心せよ」、「念仏せよ」という声が「きこえて」くるときは「聞こえる」の方です。この場合は、むこうからやってくる声にゲットされています。「聴く」が自力で、「聞こえる」が他力であることは言うまでもありませんが、大事なのは、他力の「聞こえる」は自力の「聴く」なかでしかおこらないということです。
 ここに方便の意味があります。他力の真実には自力の方便の通路を通してしか至ることができないのです。

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ことばは自力のバージョン [『観無量寿経』精読(その70)]

(3)ことばは自力のバージョン

 結局は「ことば」の問題の行きつきます。他力をことばで表現することの絶望的な難しさということです。そもそもことばというものはわれらがこの世を自力で生き抜いていく上で不可欠の道具としてつくられてきました。そしてわれら人間を地球上の覇者として君臨させることになったのは間違いなくことばの力でしょう。つまりことばというものは自力のバージョンになっているのですが、そのようなことばをもちいて他力をどうあらわせばいいのか、その困難さに問題の本質があります。
 他力を言うとき、こんな言い方がされます、往生という果はもちろんのこと、その因としての信心・念仏も弥陀の本願力によると。われらが信心し、われらが念仏することにより、往生することができるのではなく、信心も念仏も本願力のなせるわざであり、そのおのずからなる果として往生があるということです。さて、このように聞いた時、われらのこころはざわつかないでしょうか、それではわれらはもはやただの木偶の坊ではないかと。本願を「信じる」とか、名号を「称える」という動詞をつかうとき、それは主語としての「わたし」が本願を「信じ」、名号を「称える」のであって、それ以外の誰かが「信じ」たり「称え」たりしているとは考えられません。ところが信心も念仏も本願力のなせるわざと言う。
 他力の信心とか他力の念仏という言い方は、ことばそのものに無理があると言わざるをえません。
 大急ぎで言わなければなりませんが、「他力の信心」、「他力の念仏」が真実ではないというのではありません。浄土真宗の教えのエッセンスがここにあるのは確かです。ただ、この言い回しには、ことばとして無理があり、本願を「信じる」と言い、名号を「称える」と言うときには、それをするのは主語としての「わたし」であるという大前提がありますから、それを他力と言われるとこころがざわつくのです。そこで考えたいのが、同じことばを自分自身が語る場合と、他の人が語るのを聞く場合の違いです。「わたしが本願を信じ念仏すれば往生できる」と自分が言う時と、他の人が「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と語るのを聞く時とでどう違うかということです。

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顕彰隠密(けんしょうおんみつ) [『観無量寿経』精読(その69)]

(2)顕彰隠密(けんしょうおんみつ)

 このようにそれぞれの功徳の差に応じて往生のかたちに違いが生まれるという説き方がされますが(これは九品すべてに一貫しています)、ここには往生(果)は行者の功徳(因)によって左右されるという立場がはっきり出ています。自力の立場です。前回の最後のところで、親鸞は『観経』(と『小経』)は人々を真実の教え(それは『大経』にあるとされます)に導くための方便の経であると考えたことに触れましたが、その点についてもう少し踏み込んで親鸞の考えをみておきましょう。
 「化身土巻」で親鸞はこう言っています、「釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義(文の表に顕われた意味と裏に隠れた意味)あり。顕といふは、すなはち定散諸善(定善と散善)を顕し、三輩(上輩・中輩・下輩)・三心(至誠心・深心・回向発願心)を開く。しかるに二善(定善・散善)・三福(行福・戒福・世福)は報土の真因にあらず。諸機の三心は、自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕(ごんぼ)浄土の善根なり。…すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢(えんちょう、広く説く)す」と。
 短い文章に多くのことばが詰め込まれ、すんなりと頭に収まってくれませんが、要するに『観経』には顕の義(外にあらわれた教え)と彰の義(内に秘められた教え)があるというのです。顕の義では、仏や浄土を観る定善とさまざまな善行をなす散善が説かれ、あるいは三福や三心が説かれていますが、それらの教えはあくまでも方便であり、真のねらいは彰の義、すなわち弥陀の本願による往生を説くことにあるということです。顕の義では(見かけの上では)行者が万善諸行をすることにより往生しようと願えと説かれていますが、彰の義では(その真の意図は)往生はその因も果もみな弥陀の本願の力によるのだというのです。
 さてしかし、どうしてこんな手の込んだことをするのか、という疑問が浮びます。端的に真実(他力の教説)を説けばいいのに、どうして方便(自力の教説)を説くことにより真実へ導こうとするのか、と。

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