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我執の気づき [『観無量寿経』精読(その52)]

(12)我執の気づき

 フロイトのリビドーに当たるものが仏教でいう我執でしょう。「われへの囚われ」です。われらの中には例外なくこの我執があるにもかかわらず、これを見たくないもの、隠しておきたいものとして無意識の世界に押し込めて、何食わぬ顔をして生きているということです。しかし、抑圧されたリビドーが精神疾患として思いがけずその姿をあらわすように、無意識のなかに押し隠されているはずの我執が思いがけない形でわれらに苦しみをもたらしていると仏教は説くわけです。そして精神疾患を解消するためには、それをもたらしているリビドーの存在を日のもとにさらさなければならないように、われらの苦しみを和らげるためには、それをもたらしている我執を智慧の光の明るみにもたらさねばなりません。
 さて、精神疾患に悩まされている人が、知りたくないもの、隠したいものとして無意識のなかに押し込めている性的な衝動が疾患をもたらしている元凶だと自分で気づくことは不可能です。そうと意識することなく自分でしっかり抑圧しているのですから。それは外から(医者から)気づかされるしかありませんが、そのとき気づきたくない患者と気づかせようとする医者との間にすさまじい相剋が生じるに違いありません。同じ様に、見たくないものとして押し隠している我執が苦しみをもたらしている正体だと自分で気づくことはありません。無意識に隠そうとしているものに自分で気づくことがないのは、夢のなかにある人がこれは夢だと自分で気づくことがないのと同じことです。気づきは外からもたらされるしかありませんが、その際も激しい葛藤が起ることでしょう。
 我執とは「わたしのいのち」を何の根拠もなくすべての上におくことですが、われらにはみなこの我執があるというように言われますと、おそらく猛然と反論が起ることでしょう。そんなことはない、わたしはわたしのことだけを考えているような我利我利亡者ではなく、子どものこと、親のこと、仲間のことなども一生懸命考えているではないかと。でもその化けの皮はすぐ剥がされます。子どもといっても「わが子ども」であり、親といっても「わが親」であり、仲間といっても「わが仲間」であり、結局のところ「わたしのいのち」を第一に考えているのです。

タグ:親鸞を読む
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