SSブログ

普想観と雑想観 [『観無量寿経』精読(その54)]

(14)普想観と雑想観

 第十二観、第十三観をつづけて読みましょう。

 この事を見る時、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐(けっかふざ)し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開くる想をなすべし。蓮華の開くる時、五百色の光あり。来りて身を照らし、眼目(げんもく)開くと想へ。仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出(しょすい)の音声、みな妙法を演(の)ぶ。十二部経と合して、出定(禅定から出る)の時憶持(おくじ、記憶する)して失はざれ。この事を見をはるを極楽世界を見ると名づく。これを普想観とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至したまふ」と。
 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「もし心を至して西方に生ぜんと欲せんものは、まづまさに一つの丈六の像(一丈六尺の阿弥陀像)、池水の上にましますを観ずべし。先の所説のごとき、無量寿仏の身量は無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。しかるを、かの如来の宿願力のゆゑに憶想することあらば、かならず成就することを得。ただ仏像を想ふに無量の福を得。いかにいはんや仏の具足せる身相を観ぜんをや。阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変現自在なり。あるいは大身を現じて虚空のなかに満ち、あるいは小身を現じて丈六、八尺なり。所現の形は、みな真金色なり。円光の化仏および宝蓮華は、上の所説のごとし。観世音菩薩および大勢至、一切処において身同じ。衆生ただ首相(頭首の姿)を観て、これ観世音なりと知り、これ大勢至なりと知る。この二菩薩、阿弥陀仏を助けてあまねく一切を化したまふ。これを雑想観とし、第十三の観と名づく」と。

 第十二観・普想観は、自分が極楽浄土に往生して蓮華のなかに結跏趺坐していると想えということで、これまではまだ往生する前の話でしたが、ここで往生後のことが話題となります。そして第十三観・雑想観は、ここまでのすべてを総括する形で、無量寿仏の像と真身、および観音・勢至を観ることを述べています。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問