SSブログ

かの如来の宿願力のゆゑに [『観無量寿経』精読(その55)]

(15)かの如来の宿願力のゆゑに

 ここでもっとも大事なメッセージは、「かの如来の宿願力のゆゑに憶想することあらば、かならず成就することを得」というところにあります。われらが浄土や無量寿仏を「観る」ことができるのも、みな「かの如来の宿願力のゆゑ」であるというのです。つまりこういうことです、これまで第一観から第十三観に至るまで、浄土や仏・菩薩を「観る」ことが説かれてきたのですが、それらはみな「かの如来の宿願力」に「気づく」ための手立て、方便であり、それに気づくことに目的があるということ、これです。大事なことは仏・菩薩の姿かたちを「観る」ことではなく、その声が「聞こえる」ことであり、あるいは仏・菩薩の光明を「観る」ことではなく、その光明に「照らされる」ことだと述べてきたのはそのことです。そして声が「聞こえる」、光明に「照らされる」とは、「かの如来の宿願力」に気づくことに他なりません、
 そして、「かの如来の宿願力」と言うとき、「宿願力」に重点があり、「かの如来」ということばに囚われないようにしなければなりません。「かの如来」がいるから「宿願力」があるのではなく、「宿願力」があるから「かの如来」がいるのです。この間の消息を親鸞はこう述べています、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料なり」(『末燈鈔』第5通)と。ここで「自然のやう」とあるのは「おのづからしからしめる」ということ、すなわち「みづからのはからひ」ではないということです。で、このことばの意味は、弥陀仏と言うのは「こちらからではなく、むこうから」ということを示すためであり、弥陀仏という存在がまずもって前提されているのではないということです。
 「他力といふは如来の本願力なり」ということばも、そのことを言わんとしているに違いありません。これまで縷々述べてきましたように、我執の事実に自分で気づくことは金輪際ありません。それは外から気づかされるしかないということ、これが他力のもっとも深い意味です。この「外から」ということを言うために、その手立て(料)として如来がたてられているのであり、まずもって阿弥陀仏なる存在があるわけではありません。阿弥陀仏に救われるというのは、われらは自分で自分を救うことは金輪際できないと言っているのです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問