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自身は現にこれ罪悪生死の凡夫 [『観無量寿経』精読(その59)]

(4)自身は現にこれ罪悪生死の凡夫

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」についても同じように言えます。これも「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読むのが自然ですが、しかしそう読みますと、われらには確かに虚仮の心があるが、真実心もあるのだから、内に虚仮の心を懐かないよう心掛けなければならないという意味になります。しかし親鸞としては、われらに真実心があるはずはないのだから、外に向かっていかにも賢善精進であるかのような顔をするな、ということになります。汝自身を知れ、という厳しい指摘です。
 さあしかしこれは、見ようによっては、親鸞は他人の文章を自分勝手に読みかえていると言うこともできます。著者の意図をそっちのけに、自分の読みたいように読んでいるだけではないかと。
 そこで親鸞の気持ちを代弁しますと、ほんとうは善導自身が言いたいことなのだが、残念ながら言い尽せていないことを、自分が代わって言っているのだということではないでしょうか。それは次の深心釈をみることでより明らかになります。善導は深心とは深い信心であり、それに二種あるとしてこう言います、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」と。
 これは善鸞浄土教の金字塔とも言うべきで、これだけでも善導は永遠に輝いていますが、この善導の立場からすれば、至誠心についても親鸞のように読むのが、善導にとってその真意をついていると言えるのではないでしょうか。善導はまず「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であると言いますが、これは言い換えれば「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということでしょう。としますと善導としても「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」という読みはないと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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