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「機の深信」を通して「法の深信」に [『観無量寿経』精読(その62)]

(7)「機の深信」を通して「法の深信」に

 自分が何ものであるかは自分で知ることができず、外から知らしめられるということは、「わたしのいのち」にはその外部があるということに他なりません。
 われらは「わたしのいのち」ですべてが完結していると思い込んでいますが(デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はそういう意味です)、それはまさに「わたしのいのち」に囚われているのであって、ちょうど夢を見ている人にとって夢の世界が唯一の現実であり、その外に覚醒の世界があるなどと思いもしないのと同じことです。しかし、あるとき「わたしのいのち」には外部があることに気づかされます、ちょうど夢から覚めた人が、夢の世界が唯一の世界ではなく、その外に眩いばかりの世界があると気づかされるように。
 「わたしのいのち」の外部が「ほとけのいのち」に他なりません。「わたしのいのち」は「ミタ(有量)のいのち」ですから、その外部は「アミタ(無量)のいのち」であり、また「わたしのいのち」は「みなもつてそらごとたはごとのいのち」ですから、その外部は「みなもつてまことのいのち」であり、その「アミタのいのち」を「ほとけのいのち」と呼んでいるのです。
 さて「わたしのいのち」の外部に「ほとけのいのち」があると言っても、この二つが別々に、たとえば地球と太陽のようにあるのではありません。「ほとけのいのち」は「アミタのいのち」ですから、それが「ミタのいのち」である「わたしのいのち」と別々であることはなく(もしそうなら、それはもう「アミタのいのち」ではありません)、「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」をその内に包みこむしかありません。それは覚醒の世界が夢の世界をその内に包みこんでいるのと同じです。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と気づかされたとき、同時に、そのような「わたしのいのち」には外部があると気づかされています。その気づきが「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」に他なりません。このように、「機の深信」(自己)を通して「法の深信」(本願)に至るのです。ここにはいかなる形而上学も教条主義もありません。

タグ:親鸞を読む
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