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命終らんとする時 [『観無量寿経』精読(その65)]

(10)命終らんとする時

 「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深信、三つには回向発願心なり」という冒頭の一節にこだわってきましたが、それはここに『観経』の、ひいては浄土の教えの根幹があるからです。善導はそれを見抜いたからこそ、この三心は上品上生に限定されるものではなく、下品下生に至るまで、すべての往生人に通じると解しました。すなわち、善人であれ悪人であれ、往生を願うものはこの三心を具えていると見たのです。これが上品上生段以外の段には出てこないのは、ただ略されているだけであり、すべての段に共通していると解釈しました。
 この解釈は、至誠心・深心・回向発願心の三心は、われらにもともとあるのではなく、如来から回施されてはじめてわれらに具わるものであることを明らかにした親鸞の立場とつながります。もし三心が上品上生の往生人に限定されるのでしたら、それは往生人みずから具えなければならないものであるという見方が出てくるでしょうが、三心は下品下生の往生人にも具わっているとしますと、それはもはや往生人がみずから設えることができるはずはなく、如来から賜るしかないことは明らかです。下品下生の往生人とは「不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん」人ですから、そのような人に至誠心・深心・回向発願心をみずから設えることを期待することはできません。
 さて、上品上生の往生人とはどういう人かといいますと、それは「慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具」し、「大乗方等経典を読誦」し、「六念を修行す」る人のことですが、この人は「この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得」と説かれています。ここに「すなはち」とありますが、これは「その場でただちに往生を得」ということではなく、往生はあくまで「命終らんとする時」であり、それは次の上品中生をはじめ、この後につづく九品すべてに共通しています。『観経』は往生を「命終らんとする時」に阿弥陀仏の来迎にあずかり「仏の後に随従して、弾指のあひだのごとくに」かの国に生まれることであるという立場を一貫して取っています。

タグ:親鸞を読む
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