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臨終まつことなし、来迎たのむことなし [『観無量寿経』精読(その66)]

(11)臨終まつことなし、来迎たのむことなし

 往生とは、「浄土に生まれる」ということですから、そのことばがもともと持っている語感からして、今生での命が終わってからのことであるのは当たり前であり、それ以外に考える余地がないように思えます。『観経』は最初から最後まで往生についてのこの常識的な立場に立って説かれており、『観経』に軸足を置く人たちはみな往生は命終わってからのことであるのは当然として議論を組み立ててきました。道綽しかり、善導しかり、源信しかり、法然またしかりです。
 ところが親鸞一人は違った。親鸞ははっきり、『観経』は方便の経(真実へと導くための方便として仮に説かれた経)であり、真実の教えは『大経』にありと宣言します。『教行信証』第一の巻「教巻」に「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」とありますが、これは言外に『観経』と『小経』は方便の経であると言っているのです。そのことを主題とするのは『教行信証』最後の「化身土巻」においてですが、全巻を通じてこの立場は貫かれています。そして真実と方便を分ける分水嶺が「他力の教えか自力の教えか」にあるのはもちろんですが、それはおのずから「往生は命終わってからか否か」とつながっています。
 この点についての親鸞の考えがこれ以上望めないほど明確に示されているのが『末燈鈔』第1通です。「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」。真実の信心すなわち他力の信心を得た人は、そのとき摂取不捨され正定聚となるのであり、それはそのとき往生がはじまることに他なりません。「信心のひとは、そのこころすでにつねに浄土に居す」(同、第3通)のですから、「このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。
 しかし『観経』の立場から往生は命終わってからに決まっていると考える人は、これらのことばも別様に見えてくるようです。

タグ:親鸞を読む
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