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信心の定まるとき往生また定まるなり [『観無量寿経』精読(その67)]

(12)信心の定まるとき往生また定まるなり

 「信心の定まるとき往生また定まるなり」ということばを、信心を得たときに将来の往生が約束されるのであり、それが摂取不捨、正定聚の意味であると理解するのです。往生が定まるとは、往生することが決定されるということであり、往生そのものは先のことだというのです。さてしかし、理屈を言うようですが、「往生が定まる」を「往生することが決定することであり、ただちに往生することではない」と理解するならば、「信心が定まる」も同様に「信心することが決定することであり、ただちに信心することではない」と理解しなければなりませんが、ここで「信心が定まる」とあるのは、この先信心するということではなく、ただちに信心するのであることは言うまでもありません。
 どうしても正定聚と往生は別でなければならないと固執する人は、往生をゴールという点と思念しているのではないでしょうか。信心の時に正定聚となり、そのとき往生というゴール地点をめざしての歩みがはじまると見るのです。そしてそのゴールは「命終らんとする時」であるとするのですが、さてしかしそうしますと、親鸞が「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と明言しているのをどう処理するのでしょう。往生というゴール地点が臨終の時であるとしますと、その時をこそ心待ちにし、その時に弥陀の来迎にあずかれるかどうかこそ最大関心事になると思いますが、親鸞は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と言う。これをどう咀嚼すればいいのでしょう。
 このことばはやはり往生について臨終の来迎をまつことはない、それは信心の時にはじまるのだと理解するしかないと思いますが、いや、信心の時には正定聚となるだけであって、往生はあくまで臨終の時を待つしかないと拘るのは、往生ということば、浄土ということばが醸し出すイメージに深く囚われていると言うしかありません。浄土へ往生するというからには、この娑婆世界とは空間的に隔てられた別の世界に往くのであり、したがってそれは「いま」ではない別の時に往くしかないと思い込むのです。親鸞にはそのような拘りはなく、正定聚となることが往生に他ならないと了解していますが、そのもとをたずねますと、曇鸞の往生観があると思われます。曇鸞にとって往生とは、アナザーワールドに生まれ変わるようなことではなく、それは「無生の生」(『論註』)に他なりません。

                (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
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