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7月25日(日) [コギト]

 皆さん、こんにちは。いつから日本は熱帯の国になったのかと思わせるような暑さです。いかがお過ごしでしょうか。
 参議院選挙で与党が惨敗し、再びねじれ現象が生まれました。前のときにも思ったのですが、ねじれ現象は政治的決定を遅らせますから、迅速にことを進めなければならないときには困りますが、さまざまな意見を戦わせ、真の意味での話し合いを実現させる大きな力になるのではないでしょうか。
 それと関連しますが、最近学生のレポートを読んで「えっ」と思ったことがあります。かなりの学生が「平和の反対語が戦争だと聞いて驚いた」と書いてきたのです。平和の反対語が戦争ではないとすれば一体何なのかと、しばし考え込まされました。ふと思い当たったのは、彼らの多くにとって平和とは「対立のない状態」を指しているのではないかということです。とすると、平和の反対語は対立ではないか。これは推測にすぎませんが、もしそうだとしたら、ここには考えなければならないことが潜んでいると思います。
 学生たちにとって平和とは「和」ではないか。聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の「和」です。異論もなく、みんな同じ思いをもって暮らすのが平和。確かに意見の対立があると気が休まりません。みんな同じ考えで統一されていれば安らかな日々が送れるでしょう。さてしかしここからは、異なった考えをもつものは「和を乱すもの」だから排除しなければならないとする力学が生まれ、「平和を守るための戦争」へとつながりかねません。平和を維持するためには戦争を避けることはできない。こうして平和と戦争は反発しあうどころか互いに補いあう関係になります。何という倒錯でしょう。
 意見が違っているのが普通だという感覚が大事です。もし考えがぴったり一致しているとしますと、きみがきみでぼくがぼくである必要がなくなってしまいます。こんなふうに意見の対立があるのが普通という前提にたちますと、意見の対立がない状態が平和ではありません。意見の対立を話し合いで解決していこうとするのが平和で、それを暴力で解消しようとするのが戦争です。
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