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7月30日(金) [矛盾について(その3)]

 ある人の矛盾した言説は許されないのに、二人の間の意見の対立は当然と認められることに何か割り切れないものを感じるのは、言説と現実がはっきりと区別されていないからです。楚の商人が「この矛はどんな盾も貫くが、この盾はどんな矛も跳ね返す」と言うとき、「この矛はどんな盾も貫くが、この盾はどんな矛も跳ね返す」という言説は矛盾していますが、彼がそのように言うことそのものは一つの現実であり、そこに矛盾があるわけではありません。
 また、太郎が「この矛はどんな盾も貫く」と言い、次郎が「この盾はどんな矛も跳ね返す」と言い争うことも一つの現実で、それは矛盾でも何でもありません。ただ、太郎の「この矛はどんな盾も貫く」という言説と、次郎の「この盾はどんな矛も跳ね返す」という言説は矛盾します。この二つの言説を「かつ」で結びつけるとつじつまがあわなくなるということです。
 さらに、太郎の中で一人の自分が「この矛はどんな盾も貫く」と言い、もう一人の自分が「いや、この盾はどんな矛も跳ね返す」と言うことがあったとしても、それは矛盾ではありません。心の中で現実にそういう葛藤が生じているということです。でも一人の自分の「この矛はどんな盾も貫く」という言説(心の中のつぶやき)と、もう一人の自分の「いや、この盾はどんな矛も跳ね返す」という言説は矛盾します。
 言説と現実。
 言説とは現実をことばに写し取ったものです。そして、矛盾は言説にだけあり、現実にはありません。「この矛はどんな盾も貫くが、この盾はどんな矛も跳ね返す」という言説は矛盾していますが、誰かがそのように言うことは矛盾でも何でもありません。誰かが矛盾したことを言っているという現実があるだけです。「きみの言っていることは矛盾している」と非難することはできますが、「きみがそう言うこと自体が矛盾している」と言われても、何を言われているのかよく分かりません。
 
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