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矛盾について(その4) ブログトップ

7月31日(土) [矛盾について(その4)]

 しかし、しばしば現実の中に矛盾が存在するかのような言い方がされます。社会の矛盾といった言い回しはごく普通に受け入れられています。金融危機によって派遣切りにあった若者たちがたちまち路上に放り出されるという現実を目の当たりにしますと、こんな社会はどこか間違っていると感じます。社会の矛盾を感じるのです。これはしかし社会に構造的な欠陥があるということを表現しているのであって、社会の仕組みをどれほど細かく調べても、そこに矛盾を発見することはできないでしょう。現実に存在しているということは矛盾がないということです。
 ことばにはおのずから多義性がつきまといます。それは一面では「あいまいさ」ですが、裏返しますと意味の「豊かさ」でもあります。矛盾ということばもその例外ではなく、「つじつまが合わない」のは言説だけのことに違いありませんが、それが現実にまで拡大され、「こんな社会は矛盾している」と言われるようになったのです。そしてそのように拡大されるのは、言説と現実の境目がぼんやりしているからです。
 「この矛はどんな盾も貫く」が言説で、誰かがそう主張することは現実だと言いました。しかしその言説そのものもことばの連なりに他なりませんから、その意味では現実です。「この矛はどんな盾も貫く」と口で言う場合、それは空気層の振動として現実に存在します。また、それを文字で書く場合は、紙の上のインクの痕跡として現実に存在します。いずれにしても現実そのものだとしますと、言説と現実の境目はどこにあるのかということになります。
 ことばは、物理的存在としては空気層の振動やインクの痕跡にすぎませんが、その一方で現実の一断面を写し取るという驚くべき機能を持っています。それ自体として現実でありながら、現実についてさまざまに描写することができるのです。ちょうど風景画は、それ自体としてはカンバスと絵具という現実の存在でありながら、美しい風景を描写しているのと同じです。現実に属しながら、現実を写し取る。しかもさまざまにデフォルメすることができるのです。

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