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11月16日(火) [矛盾について(その110)]

 対馬旅行で一回更新できませんでした。 
 先回こう言いました、「機の深信」を「法の深信」の条件とすることは、どちらも向こうから与えられるものではなく、こちらから手に入れるものにしてしまうことだと。しかし「機の深信」も「法の深信」も、ぼくらがそれらをゲットするのではなく、それらがぼくらをゲットするのです。としますと、まず「機の深信」、しかる後に「法の深信」ではなく、「機の深信」があるところには「法の深信」があり、「法の深信」のあるところには「機の深信」があるということになります。
 なるほど「機の深信」のないところに「法の深信」はありません。でも同時に言わなければなりません、「法の深信」のないところに「機の深信」はないと。両者は二にして一なのです。「二である」ように見えるが、実は「一である」のです。改めて「機の深信」と「法の深信」を確認しておきましょう。前者は「こんな自分は救われない」と信じること、後者は「こんな自分が救われる」と信じること。これはどこから見ても「一である」とは言えません、「二である」と言わなければなりません。二であるだけではなく、真っ向から対立しています。ところがそれが「一である」。
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