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11月20日(土) [矛盾について(その114)]

 「太郎にも次郎にもひとしく椅子がある」という矛盾を孕んだ声がするからこそ、太郎も次郎も己のなかの煩悩に気づき「こんな自分は救われない」と悲しむのです。そして「太郎にも次郎にもひとしく椅子がある」という矛盾に満ちた声がするからこそ、太郎も次郎も「こんな自分が救われる」と喜ぶのです。この声がなければ悲しみはありませんが、喜びもありません。この声があるからはらわたを絞るような悲しみがあり、しかし同時に腹のそこから突き上げるような喜びがあるのです。悲しみと喜びは背中合わせに張りついているのです。
 「こんな自分は救われないが、こんな自分が救われる」について縷々述べてきましたが、ひとつ気になるところがあります。昨日、どこかから「太郎にも次郎にもひとしく椅子がある」と聞こえてくるとき、これは事実を記述しているのではなく、「太郎にも次郎にも椅子に座らせてあげたい」という意思を表明しているのだと言いました。ところが少し前に、「みんなにひとしく生きる場所がある」は「事実の記述」でないことはもちろん、「みんなにひとしく生きる場所があるべきだ」という「意思の表明」でもないと述べました。
 どうなっているのかと思われた方がいることでしょうが、ここに問題の核心が露になっていると言えます。
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