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12月2日(木) [矛盾について(その126)]

 悪人であることと悪をなすことは別だと言いました。しかし疑問が出されるかもしれません、実際に悪をなす人を悪人と言うのではないかと。腹の中で「割り込みをしたい」と思っているが、実際には割り込みをしない人は悪人とは言わないのではないかということです。聖書のイエスのことばを思い出します。「“姦淫するな”と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。何と厳しいかと思います。罪とか悪とかは実際にそれを「する」ことであって、ただ心の中で「思う」だけでは罪人でも悪人でもないような気がします。どう考えたらいいでしょうか。
 すぐ思いつくのは法と倫理の違いです、法は「する」ことを問題とするだけだが、倫理は「思う」ことまで射程を伸ばすと。しかしそんな違いよりも、実際に姦淫をした人を前にしたとき、自分も心の中で姦淫をしたと思っているかどうかがずっしり重い意味をもってくることの方が大事です。またもや聖書です。イエスを陥れ、訴えるための口実を得ようとたくらむ人たちが、姦淫の罪を犯した女を連れてきてこう言います、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と。イエスは身をかがめて指で地面に何か書いていましたが、彼らが問い続けるので身を起こしてこう言います、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。これを聞くとそこにいた人たちがひとり去りふたり去りして、イエスと女だけが残ります。そしてイエスは女にこう言うのです、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と。
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