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1月6日(木) [矛盾について(その161)]

 生きることは「する」ことで覆われていて、「する」ことはすべて自力だとしますと、他力の出る幕はないように思われます。
 でも、何を「する」にせよ、そのためには「いる」ことが必要です。ぼくが何かを「する」ことができるのは、ぼくが「いる」からです。英語でも“do”と“be”ははっきりと区別されていて、ぼくが何かを「する」ことと、ぼくが「いる」ことを分けるのは当たり前のことです。(“be”には「がいる」とは別に「である」という意味がありますが、これについてはまた別の機会に考えたいと思います。)
 しかし「する」と「いる」の境界線はどこにあるかを考えますと、限りなく曖昧になってきます。例えば、ぼくは今旅行で対馬に来ていまして、ホテルの一室でくつろいでいるとします。この「ホテルの部屋の中にいる」というのは「する」でしょうか、「いる」でしょうか。「いる」に決まっています。部屋の中にいて、お茶を飲んでいるのですから、前者が「いる」で、後者が「する」でしょう。
 さて、部屋のどこにいるかと言いますと、目の前に広がる玄界灘を見ながら窓際の椅子に座っているのです。としますと、窓際の椅子に座っているのが「いる」で、海を見ているのが「する」でしょうか。だんだん両者の境界線がぼやけてきた感じです。
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