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2月6日(日) [矛盾について(その192)]

 ぼくがあるときTのキーを叩いたことには何らかの原因があり、その原因となったことにもまた原因があり、その原因にもさらに原因がという具合で、お望みとあれば前世にまで遡ることができます。こうなりますと自由(「わたし」がそうしようと思うことによって世界が一新した)など戯言以外の何ものでもありません。世界はすべてそうなるべく定められているのです。
 しかしここで忘れてならないのは「すべてに原因があり、世界はそうなるべく定められている」というのは、ぼくらが「これは何か」を知ろうとするときにかける眼鏡だということです。その眼鏡を通して見なければ、世界は一向にくっきりした像を結んでくれないのです。かくして「これは何か」を知ろうとする限り、自由はどこにも存在しません。
 ところで「これは何か」を知ろうとするのは、「生きんかな」とするからです。「これは何か」を知った上で、「何をするべきか」を決断しなければならないのです。どれだけ正確な情報を持っているかは、次に何をするべきかを決断する上で決定的に重要です。しかし「これは何か」を知ることと、「何をするべきか」を決断することは別のことです。
 「これは何か」を知る(見る)とき、自由の入り込む余地はありません。しかし「何をするべきか」を決断するときは…。
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