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2月15日(火) [矛盾について(その201)]

 誰かが「帰ってきてほしい」と願ってくれていることがどうして分かるのかということでした。
 手紙が来るとか、面会にやって来てその願いを伝えてくれたら分かるでしょうが、そんなことは考えられない状況で、誰かが待ってくれているとどうして思えるか。そもそも子どもや妻はもうすでにガス室に送られている可能性が高いし、親戚や知人だってどうなっているか分かったものではない。とすれば一体誰が待っているというのか。
 フランクルは本の最後のところでこんなふうに言います、「だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ…」と。
 前にこう言いました、ふと「帰ってきて」という声が聞こえると。そのとき例えば子どもの顔が浮かんでいます。確かにもう子どもはガス室に送られ、この世にはいないかもしれません。でも紛れもなくその子どもが「帰ってきて」と呼んでいるのです。その声の主がこの世にいるかどうかはもはや本質的ではありません。
 大事なのは子どもが自分の帰りを待ってくれているということです。実際に帰ってみると「ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない…」としても、自分を待っている人はやはりいると思えるからこそ、哀しさに耐えることができるのです。
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