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2月19日(土) [矛盾について(その205)]

 誰かに語りかけるから、それに応答があることは確かですが、ではどうして誰かに語りかけるのかと言えば、すでに語りかけられているからです。「卵が先か鶏が先か」のような話にみえますが、肝心なことは、誰かから語りかけられることがなかったら、語りかけることはないということです。
 「ただいま」に対して「おかえり」の応答があるのではなく、「ただいま」と元気よく言えるのは、それに先立って誰かの「おかえり」の声が聞こえているからです。
 語りかけられるから語りかけるということ。これは誰かに愛されることがなかったら、誰かを愛することはないのと同じです。愛されているから愛することができる。日記を書き続けた母親には語りかけてくる誰かがいたのです。だからこそ、それに応えて日々克明に日記をつけ、見えない誰かに語りかけていたのです。
 話をもとに戻しますと、ナチスの収容所で地獄のような日々を送っている人々にも、帰りを待ってくれている人がいると思えることで希望をつなぐことができるのではないかと言いました。しかし「ぼくを待っている人は誰もいない」と呟く人がいるかもしれません。でもよく見てください、「ぼくのことなんて誰も気にかけていない」と呟くからには、そう呟いている相手がいるはずです。ちょうど日々の辛い生活の様子を日記に書きとめている母親にも書くという形で語りかけている相手がいるように。そして誰かにそう呟くということは、それに先立って誰かから語りかけられているのです。人は誰からも語りかけられないのに語り出すことはありません。としますと、あなたのことを気にかけている誰かがそこにいるではありませんか。語りかけるのは、あなたのことを気にかけているからこそのことです。
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