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3月11日(金) [矛盾について(その225)]

 十字架にかけられたはずのイエスが「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と直にパウロに語りかけていますが、これが宗教的回心の典型的なパターンです。
 どこかから光がさし声が聞こえる。その声は神か仏か、いずれにせよ「外部から」直接やってくるのです。それは尋常ではない神秘的体験と言わなければなりません。「サウロ、サウロ」と呼びかける声はパウロ本人には聞こえても、その声の主であるイエスは見えませんから、その場にいた多くの人たちにとっては一体何が起こったのかさっぱり分からないでしょう。パウロが急に倒れて、立ち上がったときには目が見えなくなっていた(3日後に目を覆っていた鱗のようなものが取れ見えるようになる-「目からウロコ」はここに由来します-)というだけのことです。
 外部から超自然的な力が働き、それによってある人の生き方が180度転換する、これが宗教的回心です。この超自然的な現象は本人にとっては紛れもない事実かもしれませんが、周りにいる人間にはわけの分からないことが起こったとしか思えません。ここに宗教の最大の難点があります。得がたい回心の経験をした人としていない人とが分断されるのです。その経験をした人はそれについて感動的に語るでしょうが、していない人にはわけの分からない話です。「きみが驚くべき経験をしたことは分かるが、ぼくとしてはそれについて何も言うことができないよ、ぼく自身にはその経験がないんだから」と答えるしかありません。「でも、ぼくがその経験をしたことは間違いないのだから、きみが経験していないとしても、それを信じてくれてもいいじゃないか」という反論が返ってくるかもしれない。こうして厄介な議論が始まることになります。
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