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矛盾について(その248) ブログトップ

4月7日(木) [矛盾について(その248)]

 「仏」という宗教のことばを科学のことばに翻訳することは不可能ではないかということでした。もう一度大事なことを確認しておきましょう。
 ぼくらはそれぞれ違う土俵に立っています。ですからものの見方も少しずつ違う。ぼくがぼくであり、きみがきみであるというのはそういうことです。でも、だからこそ、ぼくの見方ときみの見方をすり合わせて、互いに了解できるところを探るのではないでしょうか。互いに了解できたとしても、ぼくはぼくであり、きみはきみです。決して土俵がひとつになり、見方がひとつになるのではありません。
 翻訳というのも、それぞれのことばの意味をすり合わせて、互いの了解を図ろうとしているのです。だから、翻訳できたからと言って、「物語」がひとつになるわけではありません、依然としてぼくにはぼくの「物語」があり、きみにはきみの「物語」があります。宗教の「物語」と科学の「物語」の場合も同じことです。宗教のことばが科学のことばに翻訳できたとしても、「物語」がひとつに統合されるわけではありません。
 もし、それぞれの土俵が異なり、それぞれの「物語」が異なるのだから、互いに翻訳することはできないとしますと、タンソンニャット空港に取り残されたぼくのように、何とも言えずもの悲しい光景の中で、ただオロオロするばかりです。だから、どんなに大変でも、自分のことばを相手のことばに翻訳し、相手のことばを自分のことばに翻訳しなければなりません。

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