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4月11日(月) [矛盾について(その252)]

 「源左たすくる」の声が「ふいつと」聞こえた。
 しかし、「いや、それはそう聞こえたように思えただけで、実はそれは源左自身の声なのだ」という反論が出されたらどうでしょう。源左は日頃こころに重荷を抱えて、切実に「助けてほしい」と思っていたものだから、背負っていた草束を牛の背に預けた拍子にどこかからそんな声がしたように思えただけだと。
 さあ、もうひとつの「物語」が登場して、ここにふたつの「物語」がぶつかりあいました。「源左たすくる」は仏の声か、それとも源左自身の声か。ぼくらの生きている文化的風土に宗教の「物語」が広く浸透しているとは言えません。ですから「それは源左の思いが外に投影されただけだよ」という「物語」の方が多くの支持を集めるでしょう。
 何か困難な課題に苦しんでいるようなとき、ふとどこかから「頑張れよ」の声が聞こえることがあります。例えば親友の声です。でもそれは自分が自分に「頑張れ」と励ましている声がどこか外からやってきたように感じるだけではないか。ぼくらのこころの働きを分析する「物語」(これは心理学と呼ばれます)はこんなふうに解説してくれます。源左の場合も、同じではないか。
 ユングは「共時性」という概念を提示してくれました。ここに何か手がかりがありそうな気がします。

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