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4月13日(水) [矛盾について(その254)]

 ぼくらは牛乳配達、小鳥のさえずり、朝刊の配達などの事象を継時的に見ているのではなく、明け方の中の布置として共時的に感じているということです。
 「あゝ、朝がきた」と感じるとき、牛乳配達や小鳥のさえずり、朝刊の配達などはバラバラの事象ではなく、明け方の風物詩としてしっかりつながりあっています。牛乳の配達と小鳥のさえずりの間には継時的な因果関係は何もありませんが、しかし全くの偶然ではありません、そこには共時的なつながりがあるのです。
 さて科学の「物語」はものごとを「知る」ために構築されています。ですから継時的な因果関係がその土台となっています。でも、何度も言いますように、ぼくらの日常の世界は「知る」ことだけではなく、「感じる」という広大な領域から成り立っています。ですから科学といえども、この「感じる」領域を度外視することはできません。しばしば、科学は客観的でなければならないから「感じる」ことはご法度だと言われます。
 これはある意味では正当ですが、ある意味では不当です。科学の議論をするときに感情を持ち込んではいけない、という意味では全く正当です。好きだ、嫌いだといった基準で何が正しいかを判断してはいけません。でも、「感じる」ことがらは主観的で価値がないと切り捨てるのは全く不当です。そんなふうにすれば、科学はぼくらの生きる世界から広大な、しかも豊かな領域をまるまる捨てることになるからです。

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