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4月20日(水) [矛盾について(その261)]

 「感じる」ことは主観的だろうかということです。
 もともと主観的・客観的ということばは、何かを「見る」とき、見る人の主観(考え方、感じ方など)が見られる対象の像の中に入っているか、いないかということを意味します。入っていれば主観的で、いなければ客観的です。見る人(主体)と見られる対象(客体)が切り離され、見る人の主観に関係なく対象を捉えることが科学的で客観的とされるのです。しかし何かを「感じる」ときは、感じる人と感じる何かは一体で切り離すことはできません。としますと「感じる」ことについては主観的も客観的もありません。
 意味をもっと拡げて、主観的を「人によってそれぞれ」、客観的を「みんな同じように」というようにとりますと、「見る(知る)」ことは「みんな同じ」でなければ困るが、「感じる」ことはもとから「人それぞれ」と思われているのではないでしょうか。ここにもしかしひとつの強い思い込みがあると言わざるを得ません。あるものを「見る」とき、「みんな同じように」見ているかどうかはかなりあやしいと思います。客観的に見なければならないと強調されるのは、実際は「人それぞれ」であることが多いからでしょう。一方、何かを「感じる」とき、思いのほか「みんな同じように」感じています。美味しいものを食べたときは、みんな「美味しい」と言うでしょうし、美しい女性に会ったときは、みんな「きれいな人だね」と言うでしょう。人によってそれほど差があるわけではありません。
 「感じる」ことは主観的というのは思いこみではないでしょうか。

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