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4月21日(木) [矛盾について(その262)]

 「感じる」ことは主観的というのは思いこみではないかということでした。
 では、どうして「見る」ことは客観的(「みんな同じ」)で、「感じる」ことは主観的(「人それぞれ」)という思い込みが生まれてくるのか。ここが一番問題で、「見る(知る)」ことと「感じる」ことの根本的な差異に関わります。何かを「見る」とき、見る人と見られる何かの間には隙間があります。何かを見ようとしてどれほど接近しても、そこには必ず隙間が残ります。でも、何かを「感じる」ときは、感じる人と感じられる何かは一体です。そこには一切隙間がありません。ぼくが悲しみを感じるとき、ぼくと悲しみはひとつです。ぼくは悲しみに包み込まれているのです。
 そこからこんな違いが生まれてきます。
 何かを「見る」ときは、ぼくがそれを見ようが見まいが、それは存在します。もしそれが存在しないなら、ぼくがそれを見ようが見まいが存在しません。ところが、何かを「感じる」ときは、ぼくがそれを感じてはじめてそれは存在します。感じなければ金輪際存在しません。ここに美しい女性がいるとしましょう。そのとき、ぼくがその女性を見ようが見まいが、その女性は存在します。でも、その女性の美しさは、ぼくが美しいと感じてはじめて存在します。感じなければ存在しません。昨日言いましたように、人によって感じ方にそれほど差があるわけではありませんから、他の誰かが美しいと感じたら、ぼくも同じように美しいと感じるでしょう。でも、ぼくがそう感じなければ、みんなが美しいと言っても、ぼくにとっては美しくないのです。
「 見る」ことなら、自分はそんなふうに見えなくても、みんながそうだと言えば、自分にはそう見えないだけだと判断しますが、「感じる」ことは、もし自分がそんなふうに感じなければ、みんながそうだと言っても、自分の感じ方を変えることはありません。それは「見る」ことには真偽の別がありますが、「感じる」ことに真も偽もないからです。きみの見方は間違っていると言われることはあっても、きみの感じ方は誤っていると言われることはありません。誤っているも何も、そのように感じるのですから仕方がありません、どうやらこの辺りから、「見る」ことは客観的で、「感じる」ことは主観的という思い込みが生まれてくるようです。

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