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矛盾について(その264) ブログトップ

4月23日(土) [矛盾について(その264)]

 感じると感じない、この溝を乗り越える妙案はあるのでしょうか。
 もう一度あの源左に登場してもらいましょう。あるときふいっと「源左たすくる」の声が聞こえた。これは源左が不思議な「つながり」を感じたのだと言い換えていいでしょう。彼のことばでは「親さん」との「つながり」です。以来、彼はことあるごとにその出来事を人々に語りました。源左が同行に「おらなあ、親さんが、源左助けるつて云われつだけえ(言われるものだから)、ようこそようこそよりほかにやないだいなあ」と言いますと、「そがなこたあ、とうに聞いて知つとるけど、まつと(もっと)はつきりしたことが聞きたあて」という不満が返ってきます。その同行には「たすくる」の声がしかとは聞こえず、「つながり」が感じとれないのです。
 源左はふいっと感じたが、他の人が感じられないとき、源左としてはどうすればいいのでしょう。「どうして感じられないのか」と詰問しても何の意味もありません。感じる感じないはその人の意思の及ばないことです。ただこれだけは言えます。源左が「つながり」を感じたということは、同じ状況においては他の誰もが感じられるということです。源左だけが感じ、他の人は感じられないということはありません。実際に感じるかどうかは分かりませんが、誰でも感じられるはずです。
 なぜか。
 感じるのは「こちらから」ではなく「向こうから」だからです。もし「こちらから」でしたら、感じられるか感じられないかはこちらの条件に左右されます。ある条件を備えている場合には感じられるが、そうでなければ感じられません。しかし感じるのは「向こうから」ですから、こちらの事情など無関係に感じられるはずです。野の草木たちは太陽の光を受けています。太陽の光は草木たちそれぞれの事情などお構いなしに分け隔てなく降り注いでいます。ですから草木たちは太陽の光を同じように感じられるはずです。ある草木は感じるが、他の草木は感じられないということはありません。

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