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矛盾について(その265) ブログトップ

4月24日(日) [矛盾について(その265)]

 「向こうから」でしたら、みんな同じように感じられるはずです。なのに、源左は感じ、同行は感じないのはどうしてでしょう。同じ状況にないからとしか考えられません。すべての草木に分け隔てなく太陽の光が降り注いでいても、木の陰になった草には光が少ししか届きません。こんな場合に感じ方が違ってくるのは仕方のないことです。そうではあっても、少なくとも言えるのは、ある草木が太陽の光を感じたら、同じ状況にある他の草木たちも感じられるということです。残念ながらいまは光を感じない草木も、同じ状況におかれれば同じように感じられるはずです。
 「“源左たすくる”と云われたことは何度も聞いて知っているが、もっとはっきりしたことを聞きたいのだ」と焦れる同行に、源左は「ようこそ、ようこそ」と答えただけでした。これは源左の口癖とも言うべきもので、すべてをあるがままに受け取ろうとする彼の生きざまを象徴することばです。同行がおかれている状況をも「ようこそ、ようこそ」と受け入れているのです。同行は源左には感じられることがどうして自分に感じられないのかと焦れているのですが、源左はその状況を否定するのではなく、むしろ積極的に受け入れるのです。
 同行は「もっとはっきりしたことを聞きたい」と言っているのに、「ようこそ、ようこそ」と答えるのは何か変な感じを与えます。何か馬鹿にされたように受け取られかねません。しかし源左はそうしか言えないのです。同行とすれば「どのようにすればあなたのように感じられるのか」と聞きたいのでしょうが、源左はそれに答えられません。知らないから答えられないのではなく、知ることではないから答えられないのです。「こちらから」手に入れることでしたら、「どのようにすればいいか」を喜んで教えて上げるところですが、「向こうから」やってくることですから、どのようにすればいいも何も、ただふいっとやってくるのを待つしかないのです。

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