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4月29日(金) [矛盾について(その270)]

 目を閉じたまま小鳥のさえずりを聞き「あゝ、朝がきた」と感じているときは、実体としての小鳥と属性としてのさえずりとは分かれていません。
 ところが「あのきれいな声でさえずる鳥は何だろう」と思った途端に実体と属性が分離します。「感じる」モードから「見る」モードに切り替わり、きれいな声の正体を突き止めようと頭が働きはじめるのです。「見る」モードにおいては、実体と属性の区別は不可欠です。さえずる声がするということは、そこに小鳥がいるはずだが、それはどんな小鳥だろう、というように思考が廻っていくことになります。
 さて、源左の耳に「源左たすくる」の声が聞こえたという「事象そのもの」に立ち返りましょう。
 もし源左がそのとき「見る」モードの中にいるとしますと、彼はすぐさまこの声はどこから聞こえてくるのかと辺りを見回すに違いありません。声がするからには、その主がいるはずです。主がいなくて、ただ声だけがすることはありえません。ここに実体としての「仏」が登場することになります。「ははあ、これは仏の声だ」となるわけです。色も形もないが、どこかからぼくらを見守ってくれている存在、これが「仏」。
 これはしかしあくまで源左が「見る」モードにいたらの話で、「源左たすくる」の声が聞こえてきたとき、源左は「感じる」モードにいます。思いもかけず「源左たすくる」の声がするというのは、半分眠りながら「チッ、チッ」と小鳥のさえずりが聞こえてきて、「あゝ、朝がきた」と明け方の気配を感じるのと同じで、「あゝ、救われた」と深い喜びの中にたゆたっているのです。
 小鳥のさえずりから明け方の気配を感じているとき、「チッ、チッ」と声がするからにはそこに小鳥がいるはずだというふうには思わないように、これまで感じたことのない深い安堵の中にあるとき、「源左たすくる」の声がするからにはそこに誰かがいるはずだというようには思いません。

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