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5月3日(火) [矛盾について(その274)]

 オサマ=ビンラディンを殺害したというニュースが世界中を駆け巡り、各地でそれが興奮して受け取られているようですが、何か「うそさむい」感じがして仕方がありません。それがどんな人であれ、人を殺したことを手柄にするべきでしょうか。
 オバマ大統領が深夜にテレビでその事実を伝え、アメリカの勝利を謳いあげたということも、オバマのこれまでのイメージとのギャップを感じざるを得ません。ブッシュがそう言うなら、そんなものかと思いますが、オバマなら「ビンラディンを逮捕するのに失敗し、殺害してしまったのは残念だった」と言うべきではないか。
 ビンラディンが憎んでもあまりあるテロリストであることは間違いありません。しかし、彼がどんなに極悪非道であるとしても、「殺してやったぞ、でかした」と浮かれるのはいかがなものか。

 「感じる」モードにいる源左は、ただ「源左たすくる」の声の中にたゆたっているだけですが、それをことばにして誰かに伝えるためには「見る」モードによるしかありません。ことばは「見る」モードに合わせて作られているからです。ですから、感じることは「ことばにならない」のですが、でもひとに伝えようとすれば、どんなに無理があっても「見る」モードで語らざるをえないのです。
 釈迦が菩提樹の下で悟ったことを自分ひとりの胸の中に収めて、ひとに伝えようとしなかったというエピソードは、このことと関係あるのではないでしょうか。よく言われるのは、釈迦が悟ったことがらはあまりに複雑微妙で、ひとに語るのを躊躇したということです。難しすぎて語れないと。でも、実はそうではなくて、「感じる」ことは「ことばにならない」からではないでしょうか。
 少し立ち止まって考えてみましょう。
 生徒にものを教えていて、生徒は「分かった」と言うが、ほんとうに分かっているのか不安になることがあります。そんなとき「どう分かったのか、自分のことばで言ってみなさい」と突っ込みますと、案の定、口の中でもごもご言うだけで、ちゃんとしたことばになりません。分かっていないのです。分かったつもりになっているだけで、実はよく分かっていない。だからことばにならないのです。
あるいはこんなこともあります。教師になろうとしている学生に模擬授業をやらせてみますと、彼らは一様に「自分では分かっているつもりだったのに、いざそれをことばにして伝えようとするとシドロモドロになってしまう」と言います。授業をやる前は分かっているつもりだったのですが、ほんとうはよく分かっていなかったのです。だからいざ授業しようとすると、ことばにならない。

 
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