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5月6日(金) [矛盾について(その277)]

 「縁起を生きる」とはどういうことでしょう。
 自分だけが縁起の外にあって、それを寂しく「見る」のではなく、自分自身が縁起の中にあることを「感じる」ということです。何かを「見る」とき、自分は何かの外にいますが、何かを「感じる」ときは、自分は何かに包み込まれている、これが「見る」と「感じる」の分かれ目でした。
 ところが縁起の一般的な解説を読みますと、縁起を因果のつながりのように説いてあります。すべては原因と結果という関係でつながりあっていると。これではしかしぼくらの常識と何も変わりません。先ほど、そんなの言われなくても分かっているよとまぜかえしたくなると言ったのは、縁起を因果のつながりと思うからです。
 ものごとを原因と結果のつながりや、実体と属性のつながりの中におくのは、ぼくらがものごとを「見る」ときの作法でした。あるいはものごとを「見る」ためにかけなければならない眼鏡でした。そうした眼鏡を通して世界を見るからこそ、すべては原因と結果という関係でつながっており、実体と属性の関係でつながっているのです。
 しかし、再度言いますが、釈迦はそんなことを言っているのではありません。そんなことを言うのに、どうしてためらう必要があるのでしょう。彼が言うのをためらったのは、「世界をどう見たか」ではなく「世界をどう感じたか」を伝えなければならないのに、そのためには原因と結果や実体と属性のような「見る」ためのことばしかないからです。そのことに気づいて深いため息をついたに違いありません。

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