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5月7日(土) [矛盾について(その278)]

 因果は「見る」ものですが、縁起は「感じる」もの。にもかかわらず「見る」ためのことばしか手元にない。さてどうするか。
 それ以外のことばはないのですから、それを使うしかありません。だからこそ縁起とは因果のことかという誤解が生じることにもなるのですが、それを避けるためには「見る」モードと「感じる」モードの違いを繰り返し言うしかありません。縁起とは「つながり」のことだが、それは「見るつながり」ではなく「感じるつながり」だと。
 しかし「見るつながり」と「感じるつながり」とはどう違うのか。ぼくらは「つながり」をあるときは「見る」し、あるときは「感じる」が、それで別の「つながり」になるわけじゃないだろ、といった疑問が出ることでしょう。
 「つながり」を「見る」ときと、それを「感じる」ときとでは、「つながり」そのものが全く別ものです。ではどう違うか。その第一点目。これはすでに言ったことで、一番肝心なことですが、「つながり」を「見る」とき、自分はその外に取り残されていますが、それを「感じる」とき、自分はその中にいます。
 「つながり」の中にいながら、それを「見る」ことがどうしてできないのかと言われるかもしれませんが、そのときは「つながり」の中にいる自分と、それを見ている自分とがいて、見ている自分は「つながり」の外です。「つながり」の中にいる自分と、その外にいる自分に分裂しているのです。
 しかし自分が二人いるなんて、どう考えても不自然です

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