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5月8日(日) [矛盾について(その279)]

 自分が二人いるなんて、どう考えても不自然ですね。ジキル博士とハイド氏ならまだ理解できます。あるときはジキル博士で、別のときにハイド氏ですから。でもいまの場合は、こちらに外から「つながり」を見る自分がいて、同時に、あちらに「つながり」の中にある自分がいるのです。臨死体験の体外離脱のように、どうにも不可解ですが、それはとりあえずそのままにして第二点目に進もうと思います。その後でもう一度戻ってきます。
 さて二点目は、「つながり」を「見る」とき、まずぼくらの目に入るのは、つながっているものたちですが、「つながり」を「感じる」ときは、「つながり」そのものを感じるということです。
 太郎と次郎の「つながり」を考えてみますと、それを「見る」とき、ぼくらはまず太郎と次郎に注目します。しかる後に両者の「つながり」を見るのです。そのようにしか見ることができません。何故かと言えば、前にも言いましたように、ぼくらは実体と属性の図式を通すことによってはじめてものごとを「見る」ことができるからです。その眼鏡を外しますと、ぼくらは何も「見る」ことができません。
 太郎と次郎が実体です。そして両者の間に「つながり」という関係があります。太郎と次郎という実体を離れて「つながり」という関係はありません。何もないところに「つながり」だけが浮かんでいるというのはあまりにシュールです。かくして、まず太郎と次郎を見、しかる後に両者の「つながり」を見るのです。
 一方、太郎が次郎との「つながり」を「感じる」ときは、「つながり」そのものが感じられています。もちろんそれを感じているのは太郎で、そして次郎とのつながりが感じられているのですが、そのことに意識が向くのは「感じる」モードから「見る」モードに転換した後のことです。そのときにはもう「つながり」を見ているのです。「感じる」モードでは、ただ「つながり」があるだけで、その中にたゆたっています。そこには太郎も次郎もなく、ただつながっているという温かさがあるだけ。
 こう言えばいいでしょうか、「つながり」を「見る」ときは、太郎と次郎の中に「つながり」があるが、「つながり」を「感じる」ときは、「つながり」の中に太郎と次郎がいると。
 (都合で、明日は更新できません。)

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