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矛盾について(その282) ブログトップ

5月12日(木) [矛盾について(その282)]

 見るつながり」と「感じるつながり」の違いをもう一度確認しておきましょう。
 まず、「見るつながり」では、「見る」自分は「つながり」の外に取り残されているのに対して、「感じるつながり」では、「感じる」自分は「つながり」の中に包み込まれているということです。
 そしてふたつ目に、「見るつながり」では「つながり」の実体(誰が)と属性(どのように)を「見る」のですが、「感じるつながり」では「つながり」そのものを「感じる」ということです。「誰が」も「どのように」もなく、ただ「つながり」の温かさの中にたゆたうのです。
 この違いはまたもや「する」ことと「いる」ことの違いに行き着きます。
 大澤真幸さんの『「正義」を考える』という本を読んでいましたら、その中に「する自己」と「ある自己」ということばが出てきて驚きました。あれ、同じ発想じゃないかとまずびっくりしたわけです。しかし、同じような発想があるということは、この区別が一人よがりではなく普遍性を持つものだということになるわけで、喜ばしい驚きでもありました。
 それはしかし大澤さんの発想ではなく、『「存在論的ひきこもり」論』(芹沢俊介著)に出てくることばだと分かりました。そこで早速取り寄せて読みましたところ、芹沢氏は「引きこもり」という現象を、「する自己」と「ある自己」ということばを使って捉え直そうとしているのです。そしてこのことばはさらにウイニコットという心理学者に由来するものであることが判明しました。

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